はじめに |
いま、業界では税理士法改正がいろいろと論議されている。
税理士法改正に関しては、日本税理士会連合会(以下「日税連」)には、過去に、有識者の意見を聴き、会員税理士の全会的討議を経て取りまとめた「税理士法改正に関する基本要綱」(以下「基本要綱」)と題する改正案があり、これを1965(昭和47)年に、広く一般に公表し、この基本要綱に基づく法改正運動に税経新人会も全国の会をあげて取り組んだ経緯がある。
しかし、この基本要綱は、大蔵・国税当局によってすげなく一蹴されるや、当時の日税連執行部は、これまたあっさりとこれを「凍結」してお蔵入りとし、以後基本要綱は再び顧みられることなく今日に及んでいる。
その後税理士法は、大蔵・国税当局の主導による数度の改正が行われ、今日に至っているが、日税連は、昨2009(平成21)年11月25日「税理士法改正に関するプロジェクトチームによるタタキ台」(以下「タタキ台」)なる文書を発表し、会員税理士の意見を求めた。
千葉税経新人会が、今回、全国研究集会の分科会の席をかりて、税理士法について皆さんと一緒に考えてみたいと思っているのは、必ずしもそのタタキ台の論議に加わろうとするものではなく、また過去の基本要綱について、再びここで論議しようとするものでもない。
タタキ台であれ、基本要綱であれ、何であれ、すべて税理士法改正を考える前提として、日本の社会において、国民・納税者の税務を代理する制度とはいかなるものであったのか、あるのか、あるべきなのか、このことを改めて考えてみたい、皆さんからもいろいろと教えていただきたい、という思いから、この分科会を企画した。どうか多数のご参加をいただいてご議論していただくことを切望している。 |
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納税者のために自然に生まれた
明治維新以後、日本の支配者が、西欧帝国主義列強に抗して国の独立を維持し、自らも東アジアに進出するため朝鮮を日本の支配下に収めることを狙い、朝鮮の覇権をめぐって清国と戦って勝ち、さらには中国東北地方から朝鮮半島に勢力を伸ばしてきた帝政ロシアとも干戈をまじえ、これに辛勝するや、直ちに朝鮮を強圧してこれを植民地とし、大正に入って第一次世界大戦に参戦、ロシアに社会主義革命が起きるやこれに干渉してシベリヤに出兵、さらに昭和に入っては中国東北地方に武力進出し、かいらい満州帝国を建設、その満ソ国境でのソ連軍とのノモンハン衝突事件、さらに中国本土に侵攻し長期にわたる中国侵略の全面戦争、そして米英との捨身の太平洋戦争突入と、1945(昭和20)年8月の敗戦に至るまで、明治、大正から昭和にかけて、まさに戦争から戦争の繰返しという時代が続いたのである。
そうした戦争のための軍備費や戦費を賄うためには膨大な財政資金が必要であり、それは結局税金として国民から強制的に徴収しなければならない。そのため、増税に増税を重ね、しかも大衆課税化せざるを得ない。
また、日本の資本主義の発展につれて商工業者が増加し、税制もそれまでの地租、消費課税中心から、それら商工業者の所得を税源とする営業税、所得税、法人税などが生まれ、その所得を生む営業形態の多様化に応じて税制・税法規も一般納税者の理解を超える複雑難解なものになっていく。
そうした増税に加えて、難解な税務処理が、納税者にとって大きな経済的・精神的負担となることから、納税者に代わってうまく税務を処理してくれる専門家が欲しい、という要求が納税者のなかからでてくるのは自然の成り行きで、そうした納税者の要求に応えて、その税務を納税者に代わって行う(以下「税務代理」という)職業、職業人が自然発生的に生まれてきたのである。 |
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業者を警察による規制・取締り
さて、この納税者に代わってその税務を処理する税務代理業者が上記のように自然発生的に生まると、いろいろ厄介な問題も出てきた。一つが、報酬をめぐる依頼者と税務代理業者との間の紛争や、税務代理業者と税務当局との間に起きるいたずらな不服申立て等のトラブルであり、さらに困った問題は、業者と役人との間の忌まわしい脱税に係る贈収賄事件の多発したことである。当局が、業者に対し警察による規制・取締りを行ったのは、こうした事件がキッカケとなって、納税者の間に重税や税制・税務行政に対する不満や批判が起きることを、もっとも恐れたからと思われる。
これらの問題を防止する手段として、大阪府や京都府など業者の多い大都市では、「税務代弁者取締規則」を定め、税務代理業者を警察による厳しい規制監督のもとに置いた。
その規制の方法は、その税務代理業を行う者を警察の許可制として不良分子を排除し、許可を得た業者にはその業務内容を記載した帳簿を備付けさせてこれを警察が随時点検できることにし、また報酬を認可制としたり、その他業者についてその非行を取締るいろいろな手立てを講じたうえで、もしその規制を逃れる無許可のモグリ業者がいれば、これに対しては厳重に処罰することとした。
この警察による厳しい規制・取締りは、この税務代理業が、国家の課税権力に対抗して、国民(当時は臣民)の生活・事業・財産を守るために生まれたというその本来的な性格に由来するものということができる。上記した当局の言う税務代理業の弊害のなかに「いたずらな不服申立て等のトラブル」が挙げられていることからも、当局は、これら税務代理業をある意味では反社会的な警戒すべき存在と考えていたフシのあることをうかがわせる。このことは逆に、この代理業の本質を示す重要な歴史的事実として記憶に留めておく必要がある。 |
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戦時税務行政の人手不足を補う
上記したうち続く戦争の深刻化に伴ない軍国主義、国粋主義が謳歌され、反戦・平和思想、自由主義的傾向は排除、弾圧されはじめる。1935(昭和10)年には憲法学界主流の美濃部達吉博士の天皇機関説が激しく攻撃され、国体明徴運動がやかましく叫ばれるようになる。36年に陸軍内の一部青年将校によるクーデター2.26事件があり、37年に国民精神総動員運動が起こされ、さらに38年には国家総動員法が公布され、また産業報国連盟が創立される。こうした情勢のなか、税務代理業
者の間にも官僚OBを中心に、国家の戦時財政に奉仕したいという運動が盛り上がってくる。
戦費調達のため、国民に対し増税に増税を強いたのであるが、恐らく納税者の生活や事業も余裕を失ってきたことから税金の滞納も増えてくる。しかし、徴兵召集により徴税事務にあたる男子の税務署員も不足してきたことから税務行政も円滑を欠き停滞してくる。こうした税務行政の人員不足による窮状を打開するため、税務代理業者に税務行政を援助させることが考えられ、そのために作られたのが国家制度としての税務代理士制度であった。
1942(昭和17)年1月、東条英機内閣の賀屋興宣蔵相(いずれも当時)は貴族院での税務代理士法の提案理由のなかで、「(前略)租税は国家財政上極めて重要な地位を占めて居るのでありまして、その運営の適否が、直ちに国政の全般並びに国民の利害に重大なる影響を与えるのであります。(中略)殊に戦時下におきまする財政需要の増加に伴いまして、相次いで増税を行い、さらに今回相当程度の増税の措置を行うことと致したのでありますが、(中略)新たに税務代理士法を制定し、税務代理士の制度を設け、その素質の向上を図りまするとともに、これらの者に対する取り締まりの徹底を期し、これにより戦時における税務行政の円滑なる運用に資せんとするのであります(以下略)。」と述べ、この税務代理士制度を「戦時における税務行政の円滑なる運用」に役立てることを目的したものであることを明確にしていた。
この前年41年4月、名古屋商工会議所で開催された税務代理人法制定期成全国大会で、税務代理業を行っている関西や名古屋の業界代表者を前にして、来賓として出席の田中豊名古屋税務監督局長(税務代理士法案は、田中氏が名古屋転出前、国税課長であったとき松隈主税局長のもとで作られたとされる)が、「国家の税務行政の円滑を図る補助機関として活躍すると共に、税の知識の乏しい納税者達のよき相談相手となり指導者となって職域奉公に努めてもらいたい。」と、税務代理士を税務行政の補助機関とすることを、祝辞のなかで述べていたのも同趣旨である。
この非常事態にあたって国家のお役にたつだけでなく、税務代理士という国家資格を肩書にすることになれば、この職業に対する社会的評価も高まると考えた当時の代理業者の多くは、この制度の創設を大いに歓迎したものと思われる。 |
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資質と規制強化のため強制加入制
税務代理士法の規定によれば、弁護士、計理士その他一定の者を税務代理士となることのできる資格者として限定している。では、その資格者であれば自由に税務代理士となることができるのかといえば、そうではなくて、税務代理士となるためにはさらに主務大臣の許可を受けなければならないとしている。税務代理士の質の向上をはかろうとしたものである。
また税務代理士の義務、規律も厳しく法律のなかに規定されているが、ここに一つ注目されることは、税務代理士は税務代理士になると同時に自動的に税務代理士会という組織に入り、その会員としてその税務代理士会の会則をまもる義務を負うことにしたことである。
そして、この会には、会員のなかに、税務代理士としての品位を失墜したり、業務上不正な行為を行ったなどの非違行為と並んで、この会の会則に違反したり、違反する虞のあったときには、その会員を退会させる権限(主務大臣の許可を条件として)がある。この税務代理士会から退会させられると、主務大臣から与えられていた税務代理士の許可が失効し、以後税務代理士を続けることができなくなる。ということは、税務代理士会は、生殺与奪の大変な権限をもって会員に睨みを利かすことができるわけだが、これは会に自主権・自律権が与えられていたと即断してはならない。なぜなら、この会の会則の制定、改廃も、すべて主務大臣の許可を得なければ成立しないことに見られるように、会自体が主務大臣の強い監督統制のもとに置かれているわけであるから、会のもつ権限も主務大臣の税務代理士に対する強い監督・懲戒権限を代行するに過ぎないというべきである。
こうした税務代理士会の強制設立、強制加入は、民主的な又は自由主義的な団体はすべて解散させられ、世の中が大政翼賛体制一色に塗りつぶされていた時代であったことを考えれば、特に異とするに当たらないのかもしれない。 |
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対立する矛盾を含むか税理士法?
うち続いた戦争の時代も終局に近づきつつあった1942(昭和17)年に、はじめて国家の制度として生まれた税務代理士制度(税務代理士法)は、天皇主権の明治憲法=大日本帝国憲法下の、しかも国家の運命をかけた激しい戦時のなかで、税務行政の補助機関としてつくられたものであるのに対し、戦後、シヤープ勧告を受けての1951(26)年成立の税理士法は新しい平和・民主・人権をうたう日本国憲法のもとで、税務代理士法を廃棄してつくられた。
しかしそのころわが国は、講和会議を前にしてまだアメリカ軍の占領下にあり、税理士法制定の前々49年に中華人民共和国が誕生、前50年には朝鮮戦争が勃発するなど、日本をとりまく状況は、すでに東西冷戦の時代に入っていた。
国内では、戦後のインフレとその克服を狙ったドッジラインで国民生活は困難を極め、民主主義的団体による重税反対の運動も各地で頻発し、各地の税務官公署(税務行政)が国民の攻撃の対象となる世情のなかで、その補助役でしかない税務代理士は、国民の信頼のない影の薄い存在であったといえる。
シャープ勧告のいう税理士の質を高め、税理士を税務官吏と対等に渡り合える代理人として国民の信頼を得させることは、いわゆる反税団体対策としても必要なことであった。
ところで、現行税理士法の問題について、私が感じていることの若干を述べれば、現行税理士法には対立する重大な矛盾を含んでいるのではないかということである。
一つは、税理士は納税者の代理人として税務権力と対峙する立場にあるものであり、いま一つは、税理士法によって国家から規制・取締りの対象とされ、また税理士会の会則によって税務行政の補助的役割を担わされている税務行政の補助者としての立場にたつものである、という矛盾である。
この後者の立場は、税務行政事務の下請負や書面添付制度などによって最近ますます強まっているのではないかということである。この税理士の納税者の代理人としての立場と、税務行政の補助的役割を担わされている立場、この二面性、相矛盾するものを、現行税理士制度(税理士法)が内包していることの問題点を認識し摘出し、これをいかに克服するかが、すべての税理士にいま問われている、そのことを私たちははっきりと自覚しなければならないのではないか。
この分科会において、皆さんの討議によってそのことが少しでも解明されれば、ありがたいと思うところである。 |
(執筆責任 伊藤 清) |
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