大宝律令(701年)
天武天皇は豪族を新しい支配体制に組み入れようとした。そして、律令や国史の編さんにも着手し、持統天皇はこれをうけついで、689年、飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)を施行し、694年飛鳥から藤原に都を移し、701年文武(もんむ)天皇、刑部(くさかべ)親王(しんのう)、藤原不比等(ふひと)らの手によって大宝律令が制定され、日本は律令国家として形をととのえた。律は刑罰法、令は国家の行政機構とその運用の基本を役人に示した行政法。
1.中央・地方の管制
政治を行う太政官(だじょうかん)は、太政大臣(だじょうだいじん)・左大臣・右大臣八省によって施行。
2.公地公民制
すべての土地と人民を国家の領有とするとともに、官僚制による強力な中央集権制を樹立しようとした。
3.戸籍・計帳制度
戸籍は六年ごとに作られる人間の登録簿毎年作られる計帳は、この戸籍を基準にして年ごとの変化を記し、その結果として、今年どれだけの調庸が課せられるか記した台帳である。
4.班田収授法
6歳以上の男女に、男子には二段(約23アール)、女子にはその3分の2。律令制的土地制度の基幹。
5.税制
律令国家の税制は、租・庸・調を中心として、調副物(ちょうそわつもの)、雑徭(ぞうよう)、歳役(さいえき)、兵役(へいえき)、仕丁(しちょう)、出挙(すいこ)、義倉(ぎそう)。 |
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平城京遷都(710年)
文武(もんむ)天皇が若くしてなくなったあと、その母が即位して元明(げんめい)天皇となると、710年、平城京をきずき、藤原京から都を移した。これは律令国家の成長にあわせ、水陸の交通が便利で、宮都にふさわしい土地に都を移した。
1.律令制の変質
良田百万町歩開墾計画(りょうでんひゃくまんちょうほかいこんけいかく)
田地開墾促進する三世一身法(さんせいっしんほう)を施行
墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を施行公地公民制の基盤を覆(くつがえ)す性格
2.田地拡大政策
百万町歩開墾計画(722年)
三世一身法(723年)
墾田永年私財法(743年) |
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平安京遷都(794年)
光仁(こうにん)天皇の後を継いだ桓武(かんむ)天皇は、新たな政治基盤を確立するため、寺院などの旧勢力の強い奈良から、水陸交通の便利な山城の地に都を移すことを考え、まず長岡京へ、ついで794年平安京へ遷都した。
1.税制
年貢(ねんぐ) 年貢は官物などの公的な税の系譜を引くが、荘園領主が徴収するもの。
公事(くじ) 律令制の調にあたり、物産品・手工芸品などを荘園領主に納入する。
夫役(ぶやく) 国衙(こくが)や荘園領主が新たな労働役の徴収制度として成立させたのが夫役である。
2.班田収授法の終焉と律令制度の崩壊
田地の不足、班田手続きの煩雑さ、偽籍の増加等律令制の基本であった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換した。
3.王朝国家体制
国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓層の成長国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長。
4.荘園
大名田堵(だいみょうたと)は各地で勢力を強め開発領主。
成長した開発領主は、国司や他の領主の干渉をしりぞけるために、中央の有力な寺社・貴族に郡や郷を寄進して荘園。
中央政府から太政官符(だじょうかんぷ)や民部省符(みんぶしょうふ)によって租税の免除を認められる
国免荘(こくめんしょう)
不入(ふにゅう)の権を得るところも多くなった。 |
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まとめ
税の制度は、大宝律令に始まり、その根本は諸外国に対抗できる強力な国家を作るための財政を確保することが目的であり、それを自然に効率よく徴収するためにつくられている。租庸調制については、当時、役人は少なく年間3%の租の税で役人が食べても余るほどあったため、庸調を中心とした人頭税を中心としていた。徴収方法についても、庸・調については直接都に運搬しなければならず、相当の労力を要したと考えられる。そのため農民の負担が大きくなり、浮浪・逃亡・偽籍などが増加したため戸籍・計帳制度が機能しなくなったことから律令制は崩壊していった。その後、税の中心は人頭税から田租に移行されが、寺社や有力な貴族たちには免税などの特権が与えられ富と権力を手に入れていた。このようにいたるところに不合理と不公平がみられ、その根底には支配権力者側の恣意が大きく働いていた。 |