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【特集 600号】
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私の理事長時代 - 2005年7月 09年7月の4年間 -
東京会 平石 共子
はじめに

新国信理事長の下、副理事長1年、事務局長2年を経て、2005(平成17)年7月理事長に就任した。それから2009(平成21)年7月に大阪会の清家裕さんに引き継ぐまでの4年間、三役をはじめ全国の理事や会員のみなさんに支えられいろいろな経験をし、充実した時間を過ごすことができた。
  副理事長   事務局長
05年度 清家 裕 山本友晴  
  西田啓治 bar03.gif 佐伯正隆
06年度 清家 裕 山本友晴  
  西田啓治 飯島健夫 佐伯正隆
07年度 清家 裕 山本友晴  
  西田啓治 飯島健夫 佐伯正隆
08年度 清家 裕 山本友晴  
  大塚洋美 戸谷隆夫 佐伯正隆
4年間の情勢は

理事長の仕事の一つに、年度の活動報告と活動方針を決めるにあたり、情勢を分析して文章化するという役目がある。「私たちをめぐるうごき」というタイトルで税経新報に掲載される。もちろん三役会で討議するし、理事会でも様々な意見が出て加筆訂正されていくのだが、そのたたき台を5月頃から考える。この1年間がどんな年だったのかは、記録の意味もあると前理事長の新国さんがよく言っていたので重大と受け止めて臨んだ。

4年間の情勢は自民党単独政権では立ち行かず自公政権となった後半にあたり、小泉政権から麻生政権までなんと首相が4人変わった。首相が1年もたない状況が続きながらも新自由主義に基づく政策が推し進められた。

02( 平成14) 年2月から07( 平成19)年10月まで景気拡大が69ヶ月続いたが、国民や中小企業にはまったく実感がないものだった。実質成長率は低く、一人あたりの年間給与は97年をピークに下がり続け、その実態は大企業の輸出を主体とする景気拡大だった。大企業は役員報酬と配当金を増加させ、賃金は切り下げ、内部留保を増大させていった。

所得格差の拡大と貧困が問題視されていたが、小泉首相は「格差は悪いことではない」と言い放った。その後ネットカフェ難民やワーキングプアをマスコミが大きく取り上げ社会問題となった。そして、リーマンショック後の大企業の派遣切りの横行の末に、年末派遣村が日比谷公園に出現、大企業の社会的責任が問われたがどこ吹く風であった。

1年目のとき沖縄会の理事の意見で、小泉外交が辺野古基地建設、基地再編、海兵隊のグアム移転などの費用3兆円を5、6年で負担することに合意したことを書き加えた。普天間基地のことはこの時点では触れていない。当時は私の認識も低かったが沖縄の人とかなり温度差があったと思う。
この4年間は自民党政治の終焉に向かって混沌とした時代。この直後、国民は自公政権に背を向け民主党への「政権交代」を選んだ。しかし、皮肉なことに財界もそれを望んだのである。

税制をめぐる状況

06(平成18)年度の税制「改正」は、定率減税の廃止により国民への増税をもたらすものだった。会社法施行に伴う「改正」として突如制定された「特殊支配同族会社の損金不算入制度」は、会社法により容易に法人を設立できる道が開かれたにもかかわらず、法人化によって役員報酬の支出による節税は課税の公平が図れないという趣旨だった。

しかし、実施すれば既存の法人に増税となるもので、日本商工会議所をはじめとする中小企業団体、税理士会などの反対により、2年目には適用除外基準が800万円から1,600万円に引き上げられる異例の改正となった。この結果、課税の対象となる法人数は大幅に減少したが、特定の要件に該当する法人のみに課税を強いる不公平な制度であったため、引き続き廃止運動が繰り広げられ、ついに3年目に廃止にすることができた。

私たち新人会も、まずはメールやファックスによる廃止の要請を行い、顧問先の決算数字を使って試算を行いいかに増税になるかを生のデータで示した。廃止を求める運動を緩めることなく廃止を勝ち取るまで取り組んだ。

国税庁の事務アウトソーシング問題

07(平成19)年4月国税庁は日本税理士会連合会に対して「今後のアウトソーシングについての考え方」を提示し、その内容は
4つのアウトソーシング事業を今後は一般競争入札により調達するというものだった。4つの事業とは、記帳指導、確申期における電話相談の集中化、相談会場における税務相談(いわゆる「無料相談」)、年金受給者への説明会である。その後国税庁と日税連の協議により、電話相談と税務相談は、一般競争入札によらず「公募方式」によることで決着した。
日税連は09年1月の臨時総会で国税庁のアウトソーシング事業を税務支援に位置づける規則の改定を行なった。

07年11月の秋のシンポジウムは「税理士制度は崩壊するのか」ー税理士法の本質と現状を考えるーをテーマに取り上げ会員へ問題提起した。新人会が税務援助、税務支援についてその都度反対を表明してきたことを踏まえ、アウトソーシングに反対の表明をし、日税連、各税理士会へ中止を求める要望書を提出するなど約2年にわたり旺盛に活動した。

06(平成18)年40周年記念事業 出張・出前学習会の開催

税経新人会全国協議会は、1965(昭和40)年7月に有馬温泉で設立集会を開いている。40周年に向け、数年前より活動方針に掲げられてはいたが、なかなかいいアイデアが浮かばない。40周年にふさわしい行事は組織の拡大強化につながるものではないかと、議論の結果、出張・出前学習会に決まった。テーマと日程を決めて、講師は全国から派遣、会場の手配や人集めは地域会にやってもらうということになった。

手が上がったのが北陸会と沖縄会で、テーマはいずれも新会社法「中小会社と税理士の対応20章」、講師は国岡清前副理事長にお願いした。40周年は、05(平成17)年6月から06(平成18)年5月の事業年度と位置づけていたので終盤に実施することができた。

北陸会は4月18日に金沢市で、沖縄会は4月28日に宜野湾市で開催し、それぞれ手弁当で三役や機関誌部員が応援に駆けつけ、地域会との交流を図った。北陸会のときは都合がつかなくて残念ながら私は参加できなかったが、この学習会が契機となって昨年の第47回加賀全国研開催に結びついたと確信している。

沖縄会には参加することができた。会社法施行を目前にした研修会で特に記憶に残っている。帰りに宜野湾市の会場から近い嘉陽さんの事務所を訪問させてもらった。副理事長の清家さん夫妻、事務局長の佐伯さん夫妻、東京会の浦野美恵子さんと6人で、翌日石垣島まで足を伸ばした。余談ではあるがこの時の旅は私の沖縄熱に一層拍車をかけることになった。

全国研究集会をめぐる論議と実践

全国研のあり方についてはもっと時間をかけるべきという問題提起がある一方、参加費が高いので若い人が参加できないという意見もあった。また、小さい会が担当するのは荷が重いという意見もあって、毎年次の開催地が決まるのに時間が掛かった。なるべく公共施設を使う、宿泊は各地域会で手配してもいいなど様々な意見が出されて、その時々の開催場所にあわせて実践していった。

1年目は第42回埼玉で、埼玉会が引き受けることになったとき長野方面という要望があった。これを持ち帰っての結論は、前回担当したときは日光だったということもあり、自分たちが活動している地元を見て欲しい、準備も都合がいいということで浦和での開催となった。実際、浦和での開催は大成功だった。親しみやすい土地柄で、とてもいい街だった。職員の参加も多く過去最高の396名の参加を得た。

2年目は神戸会が担当した。新しい方式で開催したいという提案があり、神戸国際会議場での1日開催。分科会形式は取らず研修会は1つの会場で行う。懇親会は参加自由とした。神戸会の提案は、地域会が引き受けやすいスタイルで、費用も押さえる。新人会のやり方が時代遅れになっているという指摘もあり、チャレンジする第43回神戸となった。

テーマは「憲法と消費税」、報告チームは神戸会チームと東京会中心の関東チームで、ディベートではなかったが、それに近い形でそれぞれが報告をし、清家副理事長がコーディネーターとなって、各チームが意見を出し合う方式をとった。報告にはパワーポイントが使用された。全体会での理事長の報告も初めてパワーポイントを使った。神戸会の綿密な計画と参加費を押えて313人の参加となり新たな試みは評判もよく成功裏に終わった。

3年目は北海道会が引き受けてくれた。第44回札幌は、15年ぶりの札幌開催だったが、分科会会場は前回も使った公共施設(かでる2・7)を利用し、懇親会は大通り公園に面したホテルに歩いて移動した。宿泊は各地域会で手配する方式が取られた。全体会では、地域会から出してもらった挨拶文と写真を編集してパワーポイントを使って各地域会の紹介をした。理事長の情勢を踏まえた挨拶もパワーポイントを使った。最初のセリフは、「国民が動き出した」だった。07(平成19)年7月の参議院選挙で自民党を「歴史的大敗」に追い込んだ時だった。参加者は253名。

4年目は関信会が2年前から、佐渡での開催で名乗りをあげていた。しかも、佐渡島を拠点とする「鼓童」の太鼓を鑑賞することを提案していた。関信会は、東北会から独立した会で、過去に東北会で田沢湖全国研をわらび座で開催した経験を持っていて、感動する全国研をみんなに味わってもらいたいという一心の提案だった。まず、島にわたる船のいい時間帯がない。これは佐渡汽船に掛け合ってチャーター便を出してもらうことで解決した。第45回佐渡全国研は様々な取り組みがなされ、全国研参加は316名、集会後のオプショナルツアーは全国会が企画し161名の参加があった。準備段階は難問続出で喧々諤々の連続だったが、私はこの佐渡で無事4年間の理事長の任を終えることができた。

全国商工新聞の随想の執筆

消費税廃止各界連絡会(各界連)の代表者会議での講演の依頼があった。08(平成20)年4月16日、テーマは「福田政権の税制『改革』の狙い」だった。消費税導入20年目の節目の年で、1000万対話・署名を目指す集会だった。大役を何とか終えることが出来たその2日後に、商工新聞の編集部から随想の依頼がきた。
週刊・大判8ページ・読者33万人の全国紙の「随想」欄は半年間、4人で執筆というもので、6月から12月までの全6回、1回760字というものだった。理事長に就任していなければ絶対に舞い込んではこない依頼と思って、あとを顧みず喜んで引き受けた。
タイトルだけ記しておく。誰のための税理士制度か、医療費の常識、仕事と子育ての両立、納税者の権利、社会的なつながり、レッド・パージの名誉回復へ

新報表彰の副賞のこと

就任1年目のこと。牛島昭三会員の奥様から、故人の遺志ということで全国協議会に寄付の申し出があった。秋口に話をいただいて結論が出たのが年末で奥様にはとても失礼なことをしてしまった。毎年、全国研では1年間の優れた論文に対して表彰者をノミネートし、2名ほどの会員に表彰状を贈呈してきた。寄付金の使い道として、その表彰の副賞として金一封を授与することになったのである。一人副賞3万円として年二人6万円、100万円の寄付なので16年間は授与できるという計算だった。しかし、残念ながら該当者なし、表彰者一人という年もあって、新報基金はまだ十分に残っている。是非表彰を狙ってたくさん投稿してもらいたいものだ。

四国税経新人会の結成

香川会、高知会を発展解消し、四国税経新人会が結成された。05年(平成17)年9月18日に香川、高知、愛媛の三県から10名の出席(ほかに委任状7名)により四国税経新人会の結成総会が行われた。私はメッセージで、四国に新人会の大きなのろしを上げてほしい激励した。
これで、全国協議会に結集する地域新人会は18となり現在に至っている。

北野弘久先生のこと

新人会にとって、日本大学名誉教授北野弘久先生は、全国研の来賓として、また税経新報の投稿者として私たちの眼に触れてはいたが、納税者の権利を擁護する税理士の理論的バックバーンとして常に私たちを叱咤激励してくれた。
2010(平成22)年6月17日に亡くなられてからもう2年が経とうとしている。
最後の全国研が第45回佐渡となった。先生はもうその時、自分の体の異変に気づいていたようだが、研究集会もその後の旅行もすべて参加された。
東京会の分科会に参加され、一番前に陣取り、分科会が始まる前は報告者と雑談をしていた。私は久しぶりに分科会の報告者の席についていたので、先生のうなずいたり、これは違うという顔つきが見て取れた。

分科会のテーマは、「シャウプ税制からみた現代税制の諸問題」。シャウプ税制を全面的に肯定するつもりはないが、直接税を中心とした応能負担原則があるべき税制という方向を打ち出すあまり積極的に評価したとも取れる報告も見られた。
北野先生は、皆さんの研究に深く敬意を表すると言葉をおいてから、法人課税を軽課するシャウプ税制の構造的な限界を指摘され、熱のこもった講義を受けたような感覚になった。
このとき、関本秀治会員や湖東京至会員をはじめ論客の先輩たちにたくさん発言をいただき、終わった後で神戸会の三浦康子会員から「台本があったのかと思うくらいに面白かった」と声をかけられた。
私たちが北野先生から受けた教えの幾ばくかを自分自身の糧とするとともに、後輩たちへと渡していくことが、先生のご恩に報いることになると最近つくづく思っている。

(ひらいし・きょうこ)


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