税経新報第600号が発行される。昭和33年(1958年)8月の創刊以来、ほぼ半世紀余り、よくつづけられたものと思う。会報の発行を提案し、その編集に10年ほど関わった者として、誇らしい思いがこみあげてくる。同時に歴代の編集委員の皆さんの持続的な熱意と努力に支えられてきたことを思うと胸が熱くなる。
私自身は老化が進み、毎月発行される本誌に目を通すことさえ怠っているので、本誌に関して、真っ当な評価や意見を述べることは思いも寄らぬことです。が、寄稿の依頼も黙し難いので、心に残っていることなどをいくつか書いてみることにします。
誌名「税経新報」のこと
税経新人会は、昭和32年(1957年)6月に東京で結成された。翌33年(1958年)6月の第2回定期総会で会報の発行が決定され、同年8月12日付で「税経新報」創刊号が発刊された。税経新報の名称は税経新人会の先輩格ともいうべき民主経理団の会報名をそのまま頂いた。民主経理団は昭和24年1月に結成されている。会報(月刊誌)の税経新報は昭和26年(1951年)9月創刊されたが、発行は数号までであったという。税経新人会が結成されると、民主経理団の会員の多くが税経新人会に入会され、民主経理団は解消した。
昭和36年(1961年)の国税通則法制定反対運動の中で、全国各地の有志との連絡が密になり、神奈川・神戸・大阪・熊本等にも新人会が結成された。そして、昭和40年(1965年)税経新人会全国協議会が結成された。各地域の新人会はその頭に地域名をつけることになり、最初に結成された東京の税経新人会が東京税経新人会となり、その会報「税経新報」は全国協議会の機関誌となった。なお、その発行号数は税経新報の創刊号からのまま引き継がれている。
税経新報創刊号巻頭言に思う
税理士試験に合格してまもない若者達が毎週金曜日に集まって、税法や実務の勉強会をやっていた。吉田敏幸・三浦誠・渡部至・清水幹雄などが主要メンバーの金曜会と名付けての自由な集まりであった。昭和20年代の終わり頃であった。参加希望者が増え、正式の組織体にしようと、それを決めた日、昭和31年(1956年)2月1日をとって、会の名を二・一会と名付けた。その二・一会がその翌年昭和32年(1957年)6月、さらに発展的に解消して、税経新人会が結成された。その動機となったのは、業界の先輩達、平石甫・中廣春雄・桂田斐などの叱咤と激励による。当時の若者達が納得と共感をもって受け入れた先輩達の言葉を要約すると、つぎのようなことであった。
「単なる税務会計の技術屋になる勉強だけしていていいのか。憲法や税法の基本をしっかり勉強し、実務家であって、しかも法律家としての姿勢をちゃんとせよ。国民・納税者の利益と基本的権利を守る立場に立て」。
税経新人会が結成されると、中廣・桂田先生などの先輩・民主経理団の会員であった多くの先生方がその会員になられた。
中廣先生は、税経新報創刊号に「創刊にあたって」と題する巻頭言を寄せられた。税経新人会の規約第1条「国民大衆の権利を擁護する立場から、現在の税法・税務行政及び会計学・会計実務に関する研究を行い、会員相互の親睦を図る」に関係して、税経新報の在り方を問うものであった。その主要な部分を写し取ると、次のようなことです。
「研究面に重点が注がれているように思うがそれでいいのか。税経新報はこの趣旨にそって編集されなければならないことは当然だが、国民大衆の権利を擁護する立場ということの本質的な意味を考えれば、税経の諸問題を単に研究と実務の枠にとじこめてしまってはいけない。理論と実践との統一的把握を心がけてすすまなければならない。税経新報は研究結果の実践的な成果と欠陥を学びとることができるように編集されなければならない」。
税経新人会の活動と税経新報の編集は、基本的にこれらの諸先輩のご要望にそうものであったと私は考えている。
一例をあげれば。
昭和36年(1961年)、税制調査会が「国税通則法制度に関する答申」を発表。その答申に対する検討・批判の論陣などなどで税経新報が果たした役割は大きなものがあった。税経新報に系統的に研究論文を掲載し、諸団体と連携し、反対運動のイデオローグ兼実践者として果たした役割は歴史に残るものがあると思っている。
黄色のページのこと
何時のことであったか定かでないが、清水幹雄さん(故人)が「先祖をたづねて」との題で、わが家の家系を調べ、先祖の足跡を辿った紀行文を新報に掲載されたことがある。
毎回、積極的な意見を述べる神戸新人会の理事から、この記事について厳しい意見が述べられた。「これは、税経新人会の活動とは全く無関係なものだ」と。私は、「会員の書いたこうした『息抜き』『休憩室』的な紙面があってもいいのでは」と編集責任者としての意見を述べたが、「紙面の無駄使い」との意見に押され、以後こうしたものは掲載しなくなっていた。
それから、何年たってからだろうか。「黄色いページ」の新設についての発表があった。私のような戦中派から、戦後の民主主義の社会で育った人々に編集委員のメンバーが代わってからであったと思う。私はこの提案に喜んだ。こういうページがあってもいいと賛成した。
そして、永い間、私の心の中でしこっていた上述のことを思い出した。また、私が当時思いいたらなかった民主的な手続きの進め方を、事実をもって学ぶことになった。
神田先生の励ましの言葉
税経新報第21号に当時法政大学教授であった神田忠雄先生から寄せられた「税経新報について」の一文が載っている。編集が困難に突き当たるたびに先生のこの言葉を読み返した。私が赤鉛筆でアンダーラインした部分を少々ながいのですが、転記して、この拙文を終わりにします。
「新報の魅力の大きさは阿部氏のいわゆる「百家争鳴」に属する会員諸氏の珠玉の研究発表に基づくように思われる。いずれも我々を取り巻く今日の現実が投げかける生きた問題への挑戦であるといわなければならない。・・・(中略)だが何れにしろ「新報」は単なる諸問題の雑誌に止まりえないはずである。良心的に税務に携わっている限り、まわりの諸矛盾は単なる税務の専門技術だけに関心を止めておくことは許さないはずだから。そして、一度まわりの諸矛盾に目を注ぐ時、「中小企業とは?」「独占体の蓄積収奪・支配の実態は?」そして、「この独占の力を削ぎ、矛盾の解決に近づく道は?」という一連の諸問題に逢着せざるを得ないことは全く自然である。・・・いずれも他に類をみることはできないレベルの論稿であるといわねばならないが、ただ感心するだけでなく、これが新人会会員によって初めて書き得る論稿であったと私は自分に納得させているのである。主として中小零細企業に四六時中接触し、現代資本主義の矛盾のいわば焦点にじかに身を置く人々において初めて本当につかめる問題だからである。・・・この点で「新報」はすでに輝かしい貢献をしているのであるが、それはまだほんの始まりにすぎないのだと私は思う。今後次々に提示されるのであろう現実の多様な側面とそれへの接近の新しい視角とは、必ずや現代史を最も有効にリードする武器の宝庫を富ます大切な財産なのだと私は考えている」。
故神田先生の新報への過分に高い評価と、そこに込められた大きな期待に、どれだけこたえられたのか、私自身は恥ずかしい限りだが、後に続く人々に伝えておきたいと思う。
(あべ・くにひろ) |