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生活保護の基本的視点
立正大学法学部客員教授・税理士 浦野 広明
なぜ税金を払うのか。また、払った税金はどのように使うべきなのか。日本国憲法は、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」(30条)、「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする」(84条)としている。この憲法が定める「法律の定めによる納税原則」と「法律の定めによる課税原則」は近代税制の基本原則である。
憲法は、税金は能力に応じて払うものとしている(応能負担原則、13条、14条、25条、29条等が根拠となる)。

1. 税の使途

平和と福祉を重視している以下の憲法や法律の規定に基づくならば、納税の義務は、払った税金が社会保障(福祉)など生存の確保に使われることが前提となる。

(1)平和的生存権

憲法前文は、日本国民が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べ、さらに全世界の国民が「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認している。このように憲法前文は、戦争の惨禍からの解放と生存の確保を保障する人間の基本的自由(平和的生存権)をうたっている。
日本国憲法9条は、「 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と定めている。つまり、戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認を宣言している。

(2)社会保障

日本国憲法25条2項は、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と社会福祉、社会保障、公衆衛生を総括して一般にいう「社会保障」について国の義務としている。この条項は同条の1項の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」に対応するものであり社会保障の権利(社会保障権)を明らかにしている。
憲法前文は、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」と表明している。

(3)生活保護法

生活保護法(昭和25年法律144号)は、生存権(憲法25条)の理念に基づいて、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的としている(1条)。保護の種類は、生活扶助、教育扶助、医療扶助、介護扶助、出産扶助、生業扶助、葬祭扶助の8種となっている(11条)。

(4)地方自治の本旨は住民福祉の増進義務

福祉の仕事は自治体が行う。地方自治の本旨は、地方公共団体に住民福祉の増進義務を課している点にある(地方自治法1条の2)。国には地方の財政収入の不足を補い地方自治体が本来なすべき住民の福祉の増進のために地方交付税や国庫負担金を支払う義務がある。国と地方との関係を福祉についてみれば、ナショナルミニマム(福祉最低水準)の確保は当然に国の憲法上の義務である。地方自治体は条例のもとでの裁量によって福祉の充実を自由にできる。これに対して国は介入してはならない。
2. 政府の生活保護政策

(1)生活保護の利用は貧困世帯の15%

生活保護受給者は約214万人、世帯数では約164万世帯である(2016年10月)。山形大学の戸室健作准教授の分析によれば、所得が低く経済的に貧しい状態にある貧困世帯は、1992年の385万世帯(9.2%)から2012年に986万世帯へと2.5倍に増加している。しかし、貧困世帯のうち生活保護を利用している世帯の割合(捕捉率)は1992年の14.9%から12年の15.5%へと微増にとどまっているという(しんぶん赤旗2016年3月15日)。少ないのは受けさせないからである。象徴的な例は、2017年に発覚した小田原市の生活保護担当の職員が「保護なめんな」と書かれたジャンパーを着て世帯訪問していた問題である。

生活扶助の生活扶助基準額は2013年8月から引き下げが始まり、14年3月、15年3月と3年間で12,000円もの引き下げがなされた。期末一時扶助も13年12月から、3人世帯の場合、東京都区部等で約19,000円、地方郡部等で約15,000円の減額になった。さらに15年度は、住宅扶助基準と冬季加算の引き下げも行われた。

(2)生活保護に課税の検討

政府税調は、「例えば、給与所得者に支給される旅費などや非課税貯蓄、社会保障給付(雇用保険上の失業等給付、生活保護給付をはじめとする社会保障給付などの社会政策的配慮に基づくもの)などのように非課税とされている所得がある。本来、所得は漏れなく捉えるべきである」と生活保護収入への課税を述べていた(2000年中期答申)。また、政府税調は、「個人所得課税に関する論点整理」で、

「実効税率との関係では、課税ベースの拡大が今後の課題。課税ベースとは、収入その他の経済的利益から、非課税措置、所得計算上の控除、基礎的な人的控除(基礎控除・配偶者控除・扶養控除)、その他勤労学生控除といった特別な人的控除、更に生損保控除、社会保険料控除といったその他の控除を除いたものである。課税ベースの縮小の原因となる非課税所得、各種所得のあり方を議論することが重要」と指摘していた(2005年6月21日)。

政府税調の石弘光会長は、「生活保護費も課税対象とし、控除などで調整したほうがすっきりする」とまで述べていた(朝日新聞2005年5月14日)。
3. 社会保障の権利

(1)特有の権利は生存権

現在社会(資本主義社会)において、圧倒的多数を占める労働者は、労働力商品所有者である。労働力商品は、他の商品と異なり、剰余価値をうみだす。剰余価値を追求する資本家は、必然的に労働力商品を買い叩く。労働者個人では取引能力が弱いので、労働者は団結をして取引能力の弱さを克服するしかない。団結しなければ、健康で文化的な最低生活の要求を実現できない。

社会保障特有の権利は生存権である(憲法25条)。資本主義社会において、人は労働力という商品の売買、つまり商品交換の原則をつうじてのみ自己の生存を確保する。現に労働力を販売している労働者にとっては、生存権の確立は不可欠なものとなる。しかし、失業、病気などによって労働力を販売できなくなった人は商品交換の原則にのること自体ができない。それらの人の存在が個人的事情で偶然に起きたものであれば、例外的なものとして処理された。また失業が社会問題化する初期の段階は、労使や家族内部の自律的救済で処理していた。

ところが、資本主義社会の発展によって、構造的失業の発生や失業の規模が拡大すると、貧困の問題は経済社会内部の自律的救済ではとても手に負えない。そこで国家の出番となり、社会保険の体系がつくられる。しかし、拠出制保険(医療などの社会保険の支給に要する費用を労働者が負担する保険)であるかぎり、自分で出したものを取り戻す仕組みを前提にしており、「もちつもたれつ」の原則がはたらく。その意味で社会保険の権利は、商品交換の原則による権利である。いつ失業や病気になるかもしれない労働者にとって労働基本権と社会保険の権利の両者は、商品交換原則上の生存権を支える。

(2)公的扶助は国家の義務

さらに独占資本主義の矛盾が深刻な状況になると、拠出制の保険原理ではその矛盾を処理できなくなる。そこで無拠出の生活救済である公的扶助である生活保障という問題が登場する。広い意味での公的扶助制度は、救貧法に見られるように、恩恵的な形で資本主義の初期からあった。しかし、この段階での公的扶助と、社会保険の矛盾の展開の中であらわれる現代の公的扶助では、性格が異なる。前者は国家に対する経済的市民社会の自律性を創出するための、あるいはその自律性を前提とする扶助制度である。これに対し後者は、国家に対する経済市民社会の自立性が崩れて国家の介入が不可欠となるもとでの扶助制度である。

国家の介入が避けられないということは、国家活動の義務付け化を要求するものとなり、ここに、公的扶助は、国家が義務として行わなければならない制度に転化する。この国家の義務は国民の側からすると、公的扶助を求める権利であり、それは人間の生存確保を要求する生存権としてあらわれる。この意味での生存権は市民的生存権の枠をこえ、経済的市民社会に対する国家の介入が全面的に不可欠となる国家独占資本主義段階に登場する。

特に、第2次大戦後の国家独占資本主義の展開が、完全雇用政策ないし福祉国家を目標に国民の最低生活を保障する政策を出してくるようになると、最低生活の概念が受け入れられるようになる。

最低生活の権利とはどのような意味をもつのであろうか。それは、商品の価値は、その生産のために社会的に必要な労働の量によって決定されるとする価値法則の貫徹が、全面的に国家権力の掌握のもとで成立することを意味する。すなわち国家の責任によって、価値法則の維持・貫徹がはかられるようになった以上、価値法則をつうじて生きることを要求される資本主義社会の個人の生活もまた国家の責任のもとに置かれることは当然であり、それはまた、国民の生活水準が国家の規制・管理下に置かれることをも意味する。

国民の最低生活の保障という課題は、資本制国家の不可欠な責任となる。そのことは国民の側に最低生活の権利を、資本主義体制内部において確立させる根拠となる。つまり価値法則は、権利形態を支える基礎であり、それが現代では国家によって媒介されるということが、社会保障をめぐる国家と国民との関係を、権利関係たらしめることの根拠である。
4. 社会保障の充実課題

近年の政府は、国民が社会保障によって国に依存することで自助精神を欠くという理由で社会保障の切り捨てを図ってきた。一方で、私的大企業の自助的経済活動を助ける投資や優遇税制に力を入れている。しかし、経済政策なしに現代の企業活動が成り立たないのと同時に、社会保障政策なしに現代の国民の自助活動は成り立たない。

基本的人権としての社会保障の権利を前提にするなら、大企業の法人税負担軽減という新自由主義路線に対抗する人権体系として応能原則が確立されなければならない。たとえば、年金についていえば、市場原理でとらえると、受益に応じた拠出となり、高福祉・高負担、あるいは低福祉・低負担の結論となる。けれども、生存権の立場からすると、拠出は、負担者の負担能力に抑えなければならない。他方で受益の額は、年金で最低生活が保障される程度の水準が維持されなければならない。生存権の充足は市場原理に背き、年金財政は赤字になる。だからこの赤字を財政支出によって補てんすることをつうじて生存権を保障することが、現代国家の義務である。

消費税の増収分は社会保障費に充てるなどといっているが内実は異なる。経済対策は公共事業が中心であるから、消費税は社会保障費でなく公共事業費に注入される。このような政策は社会権(社会保障)をおろそかにする。経済を至上とする論理にしたがえば、競争市場の勝利者が多くの富を蓄積し、敗北者が貧しいのは、当然の正義であるということになる。経済の論理が生活を保障するどころか、生活を破壊することが明らかになるに伴って、これを制約する社会的正義の観念が一般化し、社会権という考えが登場したことを忘れてはならない。

ひとり一人の個人をおろそかにして社会はなりたたない。社会権は、個人が社会の中で生存し、人間らしい生活を維持、発展させるために、自由な社会に特有な弱肉強食の弊害を除去することを国家に対して求める権利の総称である。

憲法の保障する「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(生存権。25条1項)、教育を受ける権利(文化的生存権。26条)、勤労の権利(27条)、労働基本権(28条)などは社会権に属する。

社会権という場合、生活する諸個人が権利主体であるから、その義務主体は「社会」である。制度的には、社会= 公共を制度上代表する国家に対する権利として法律的に構成される。

個人がその生活保障について、社会=公共に対して福祉・社会保障のサービスを請求する権利を有することこそが社会権の中心的意義である。

資本主義社会にはあらゆる生産手段を所有する資本家階級と自己の労働力以外に売るものを持たない労働者階級とが存在する。いきおい所得の不平等な分配や富の偏在が必然的に生ずる。これを税制により是正することが所得再分配機能である。

所得再分配の実現は民主的税制の確立によってのみ実現する。民主的税制は、 直接税(所得課税)中心、 総合・累進制、 生計費非課税、 勤労所得軽・不労所得重課などをいい、この思想は人民のたたかいの中で生まれた。

憲法25条にもとづき国が責任をもつ社会保障から、国民に「自己責任」「自助努力」を迫る「社会保障」への大転換を狙う大改悪にまったく道理はない。

多国籍化した巨大企業体は、自由の名のもとに、資本の自由、市場の自由、貿易の自由など地球的規模での不公正の拡大を図っている。この「自由」は世界の圧倒的多数の民衆の生存権と対立するものである。このような基本的矛盾が長く続く道理はない。道理のない体制の展望に未来はない。未来に展望があるのは、巨大企業体に支配、搾取されている民衆の運動とそれを支える理論である。税財政においては体制の基軸(負担能力を考慮せず税金を取り立てる自由)ではなく、人権を基軸(応能負担の原則・税金を福祉に使う)とすることにこそ未来がある。

「大砲よりもバターを」という言葉があるが、1930年代、ドイツでナチスが大軍拡を進めたときのスローガンは全く逆に「バターより大砲」だった。異常な大軍拡のあげくドイツは亡国の道を突き進んだのである。安倍政権の大軍拡で日本の軍事費はすでに世界有数の水準で、一方、社会保障の公的支出はドイツやフランスの7、8割、教育への公的支出は経済協力開発機構(OECD)の最下位に位置する。

法律は、国民主権・議会主義の下では、国民の意思を反映し、表現するものとしてでき上がる。国民の大部分は、勤労者・年金者など(被支配階級)に属する人であるから、国民の意思とは、つまるところ被支配階級の意思のはずである。そこで大資本家などの支配階級は、非支配階級である国民の意思にもとづき、それに拘束されて、支配を維持することになる。支配階級はこのような矛盾を抱える。現実には、現代資本主義の下における法は、現代資本主義国家の意思の表現であり、大資本家の階級支配の道具である。それにもかかわらず、現代資本主義国家の正当性は、法が国民全体の意思を反映するものであることが承認されるという限界がある。

このように現代資本主義法(現代法)の本質は、支配階級としての大資本家の私的思わくであるのにもかかわらず、形態としては、国民の意思の表現という普遍的形態を取らざるをえない。この矛盾、すなわち法の階級的本質と超階級的形態の矛盾に、大資本家が対処しうる唯一の方法は、真の国民の意思の形成をあらゆる手段で阻止し、仮象(みせかけ)の「国民の意思」をつくりあげることでしかない。しかし、この点に、実は大資本家の階級支配の最大の弱点がある。同時にこの点に、被支配階級が税制闘争において、支配階級のこの矛盾と弱点を、最大限に利用しうる条件が生まれる。

大企業や富裕層優遇税制は自公政権とそれを補完する政党によって「合意」の産物として作られる。この合意は勤労者・年金者などにとっては、仮象の合意にすぎない。このような仮象の法との対抗は、憲法の生存権や応能負担原則を生かす運動によって競うことになる。

2017年度税制大綱は2016年12月22日に閣議決定された。改定法案が国会に提出されたのは17年2月3日であった。そして、改定法案は2月27日に衆院で議決、次いで3月27日は参院で議決され成立した。国会に提出されて3週間後には、衆院で議決であるから、国会での審議など二の次になっている。

法律や条約の制定は国会にまかせておけばよい、と考えるなら、わたくしたち国民は、立法に「静観」し、自分たちで行動するする必要はない。この場合、国民の意思の表現は選挙権の行使につきる。これは立法過程で「静観」し、悪法をつくった代議士を今度の選挙で支持しない、という対応である。つまり、「事後処置」である。もちろん、立法と選挙の関係が密接につながっていることは民主主義にとって大切である。

しかし、民意を政治に反映させるための投票は、民主主義の最低の要請であり、それが最高なものであるわけでなく、ましてすべてあるわけではない。少なくとも国民主権のもとで、民意が選挙で政治に反映することは、望ましい。しかし、さらに望ましいのは、選挙以外のあらゆるときに、あらゆる形をとって、敏感かつ的確に反映することである。選挙権の行使を最低の基準として、それ以外の民意の反映の度合いが高ければ高いほど、その国の民主主義は健全となる。だが、選挙による民意の反映は間違いではない。のみならずこの最低の指標さえ確立していない今日の日本においては、この考えを主張することに意味はある。

国民はいっそう民主主義政治を発展させるために選挙権の行使という最低の要請に満足せず、さらにすすんでその他の方法による民意の反映に積極的に努力する必要がある。権利はあてがいぶちのような恩恵ではない。人間の権利は、その根底において精神的存在としての人間の尊厳にもとづいて、自由で豊かな人間らしい生活を要求し、その主張を通してゆく主体性が根底になければならない。だからこそ不断の努力が求められる。

人権の歴史は人民がそれをたたかいとってきた歴史である。そういう意味で人権は、つねに私たち自らたたかいとるものであり、人権を侵害するものとの間の不断の闘争を必要とする。憲法や法は暮らしを守る闘いの道具(武器)である。しかし、いくら良い武器を持っていても、その武器を使って闘わなければ武器のありがたみはわからない。実際に敵が攻めてくるときに、武器をもって闘わず、その武器をかまえたままで、こんなにいい武器があると叫んでいるだけでは、闘いは負けである。憲法や法をつかって営業やくらしを守る行動が欠かせない。

(うらの・ひろあき)

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