論文

> 隠された「昭和税制史」
実録  税務調査
大阪会  西田  富一

二〇〇九年二月四日は税務支援の日だった。その日、よりにもよって天王寺税務署がA、B社へ無予告・現況調査に来た。私が激しく抗議したので何もせずに帰ったが、" 現金商売だから、無予告・現況調査が当たり前 " とする国税当局の姿勢が許せない。数日後、その内容を大阪税経新人会の会員十数人にファックスで知らせた。すると、

「天王寺税務署へ抗議に行くメンバーを組織しようか」
と励ましてくれた会員もいた。確定申告期にはいり、どの税理士も猫の手を借りたいほど忙しくしているに違いない。それに一応、天王寺税務署法人課税部門の統括官が口頭であれ謝罪したので、私は仲間の力添えを辞退した。むしろ、本調査で歪んだ税務行政をただすことが何よりも大事である、と考えた。その後、調査担当者と調査日の協議を重ねた。
三月十九日、この日午後一時に、天王寺税務署からA、B社の調査に来ることになった。
所得税の確定申告も終わり、私の事務所では職員たちもほっとしていた。事務所では個人の関与先が法人の倍近くあるので、連日、正確性とスピードをモットーに、みんなよくがんばってくれた。
大不況と高齢化で六人が廃業。昨年は五月と十二月に二社が倒産・廃業した。いずれも不況による経営不振の倒産である。私の二十年分の申告は『減収減益』になった。
例年なら三月十七日か十八日に事務所の慰労会をやるのだが、今年は当分延期だ。
三月十七日に私が会社へ行き、A、B社の二人の社長と調査を受ける打ち合わせをした。何人が調査に来るのか電話で聞くと、三人ですという返事だった。
三人をどこに座らせ、二人の社長はどこに位置するかなどまで決めた。事務員の南村と王は、自分が普段座っているところで、日常事務をしていたらいい。三人の調査官がばらばらに動いたりするかもしれない。もし署員が横へ来て質問をしたり、書類を見ようとしたら、必ず私に声をかけるようにすること。私が質問したら答えることなども決めた。

調査官から提示を求められるまでに、あらかじめ総勘定元帳などの帳簿、領収書綴、伝票類、預金通帳、源泉徴収簿など決算期ごとに応接セットの横に並べておくことにした。これらの基本簿書は、税務署員が必ず言うに決まっている。社長は、私が現況調査、コピーと書類の持ち帰りは断ることにするので、と言うと、

「先生、税務署にそんなことして大丈夫ですか」

二人とも少々心配気味である。強引に書類を持って帰るということはしませんか、と真顔で私を見る。二人とも税務調査は初めてなので、心配でしかたないらしい。

「大丈夫です。あくまでも任意調査ですので......。『税務代理権限証書』を申告書と一緒に税務署へ提出しているので、署員もわかっているでしょう」

A社は貿易業のほかに焼肉店と二業種をやっていた。B社は焼肉専門店である。この日は、二人とも白い割烹着だ。およそ " 社長 " の雰囲気を感じさせない。私に、とにかく任せますので、ということになった。約二時間、打ち合わせをした。
十一時半、私はデスクの書類をかたづけ、事務所を出かける用意をした。途中、昼食をとり、十二時半に会社へ着く約束をしていた。事務所で保管してある資料を持っていくように担当者の藤澤に言った。
きのう、きょうと実に暖かい陽気だ。予報では午後には二十三度ぐらいになるらしい。私は、おとといまで冬物の分厚いオーバーを着ていたが、事務所に置いたままである。

JR環状線はこの時間は比較的すいていた。大阪城公園駅から鶴橋駅までわずか三駅である。車内で藤澤と再度、打ち合わせをする。会社から預かった資料をどのような手順で記帳代行しているか、相手にどのように指導しているかなど、もし税務署員から聞かれたら正直に答えたらいい、と念をおした。藤澤と私は十二時半に着いた。

八階建てビルの六階にA、B社はある。自動ドアの磨ガラスに『××貿易』とはっきり書かれている。B社は桃谷駅から五分のヤスラギビルの三階が登記簿上の本店所在地であるが、二年前から経理処理をA社の事務員に任せていた。それで、B社の事務所も事実上、このビルにある。約二十坪のワンフロアーで、右側に六人用の応接セットがおいてある。北窓になっているが室内は意外と明るい。隅に輸出用の×××が積んである。机は四つと、ほかに社長用のやや大きめのデスクが一番奥に位置していた。応接セットの横に二社の決算期別に帳簿書類が並んでいた。

一時五分ほど前に三人が来た。三人とも申し合わせたように濃紺のスーツに身を包み、黒い鞄をぶら提げている。典型的な税務署員のスタイルだ。二人の髪の手入れが行き届いている。

「失礼します。天王寺税務署の岡本です」

自動ドアの入ったところで、頭をぺこりと下げた。私はこちらにおかけください、と応接セットに案内する。三人とも身分証明書を手にして、立ったままだ。

「税理士の西田です。まあ、かけてください」

私はあらかじめ打ち合わせどおりの席に、座るように言った。

「岡本です」「深田です」「橋本です」

次々と身分証明書をひろげてた。

「名前と身分証明書番号、それと生年月日を控えたいので、もう一度一人ずつゆっくりと見せてもらえますか」

私は持ってきた税務職員名簿の天王寺税務署のページをあけ、右手で氏名、官職、身分証明書番号、生年月日を書いた。真ん中に岡本調査官が座り、左右に上席調査官がいた。

「岡本さんの事案ですか」

私が天王寺税務署へ電話すると、いつも「岡本に代わります」と言うので、岡本の顔を見て聞いた。

「そうです。私らは彼の事案を一緒にするように指示されていますが、あくまでも岡本の事案で、僕は手助けをするだけです」

橋本が説明した。彼は若禿げだろうか、つるつるの坊主頭だ。孫がいてもおかしくないほど老けて見える。税務署にはよくいる総務課長タイプだ。身分証明書の生年月日は昭和三十五年となっているので、四十八歳だ。岡本調査官は身分証明書の番号が十九ー〇〇〇一となっていた。

「十九年に天王寺に転勤して来られたんですか。一番はなんの番号ですか」

「総務にいたので一番やと思います。交流で二年間、総務にいました」

岡本はよどみなく答えた。なかなかのイケメンである。髪の毛は短く、好青年に見える。調査官が主担で二人の上席がそれをフォローするのか?それは建前であって、上席からすれば、岡本の調査の腕前を拝見することになるのだろう。上席調査官と平調査官とは上下関係があるのだろうか。少なくとも決裁文書には調査官の仕事を上席が決裁することはないはずである。岡本の身分証明書に書いてあった生年月日は昭和五十年となっている。三十三歳だ。深田上席はNo.二十ー〇〇二一となっており、昭和四十年生まれの四十三歳である。昨年、天王寺に転勤してきたようだ。彼も年齢より年配に見える。税務署の調査担当者は、やはり苦労が絶えないのか普通の社会人より、老けて見える人が多いように思う。税取り競争が厳しいのだろう。女性は目じりの皺が増えたとか言って、こってりと化粧をする。男性は見た目の頭髪で判断する。

「二月四日のあの日は、もう一人、現況調査に来てましたね」

「四部門の古川上席です。あのときだけ応援に来てもらいました」

岡本が答えた。二人の上席は黙ったままだ。私は、もう応援が外れたのか、と尋ねようとしたが、やぶ蛇になると思い口にしなかった。私一人で三人を相手にしなければならないのに、さらにもう一人増えるとなると大変だ。無予告・現況調査には、できるだけ大勢で押しかけ、相手を威嚇するなどおかしなことで、もってのほかだ。北村事件では本店と唐崎店の二店舗に合わせて八人が無予告・現況に押しかけた。二階の女性の寝室まで入って調査を強行した。紀ノ川農協事件では大阪国税局と税務署の署員合計十六人が一斉に襲いかかった。今津事件では『同時連携調査』と称してA社に二人、B社に二人、それからB社には七店ある支店にそれぞれ二人ずつ、いったい全部で何人来たのか最後まで把握できなかったほどだ。多勢に無勢(ぶぜい)で、まさに力ずくで脅しをかける、といっても過言ではない。

「私から社長を紹介しましょう。こちらがA社の社長の劉さんで、そっちがB社の北村さんです」

私の紹介が終わると、席を立ってそれぞれ自分から名前を言い挨拶をした。劉は中国人で三十八歳だ。来日して十五年以上になる。日本の大学を十年前にでたと言っていた。経営学を勉強したと聞かされている。北村は三十五歳の青年実業家だ。昔、親父さんが飲食店を経営していたらしく、親父の背中を見て育ったのか、経営の才覚があった。

「向こうのお茶を用意している女性は、事務員の南村さん、若い方がやはり事務員の王さんです」

二人はよろしく、と言ってこちらを向き、礼儀正しく両手を揃えて腰を折った。南村は経理のベテランで二十年以上の経験があるようだ。王は中国人で、日本に来たのは劉さんより遅いらしい。八年になると言っていた。まだ、どことなく日本語の発音が中国人独特のなまりが残っている。

「それと、そこにいるのが私の事務所の藤澤です。彼が二社の担当で、実務は私よりよく知っていると思います」

私は少しゆとりが出てきて、紹介した。南村がお茶を運んできた。

「ところで、あの日のことですが、一応、統括官が見落としていた、と私に電話で謝ってきました。しかし、会社には一言もない。今日が初対面なので、一言いっておきます」

私は、お茶をすすりながら、言った。本調査にはいる前に、問い糾すことと私はノートに二点メモしていた。

「すみませんでした」

岡本が座ったままで、心持ち頭を下げた。三人の中で一番年少の岡本が場を取り仕切るようだ。あとの二人は素知らぬ態度である。彼が調査の主役だから、なのか!

「現況はだめや言われたので、何もせずに帰りました」

" 山勘 " で当てようとする今の税務行政が国民・納税者に信頼されるはずがない。税務署員が飛び込みで入って、些細な金額でも合わなかったら、それをネタに売上げを抜いている、と決めつける。山師のように計略をかけて、勘を働かせ、強引に修正申告を強要する。

どこから突かれても、完璧な税務申告をしている会社はそう多くはないと思う。私のこれまでの経験では、重箱の隅をほじくるように、粗(あら)さがしをする署員を数多く見てきた。しかし、おおむね良しとすべき申告であっては、彼らは事績を作らなければ優秀な署員としての評価をされない。
女性である南村は、大の男に執拗に現況調査を迫られ恐怖におののいた、と直後に私に電話で言っていた。

「税務相談の当番やと言っているのに、何時間、南村さんにねばったんや?」

「そんな......ねばるやなんて......。九時半から一時間弱ぐらいかなあ、待機していたのは。すみませんでした」

岡本が盛んに弁解した。相変わらず二人の上席は黙ったままで、宙を見ていた。一応、謝ったのだから私は、これ以上執拗に追及することもないと思った。私は相手が謝っている場合は控えめにし、相手が強気で理不尽なことを言ったときは、こちらは徹底的に主張を繰り返すことにしている。

「人間だれでも間違いはするものです。私も過ちは随分しました。間違っていたらごめんなさい、と言って謝った。しかし、無予告・現況は個人的にやっているのではなく、公権力の行使として、徴税権力としてやったことですよ」

三人ともやや頭を下げて私の話を聞いているように見えた。

「ところで、会社は税務調査の受忍義務があるので、ここに帳簿書類を用意しています。会社別に決算ごとに並べていま......。その前にもう一つ、確認しておきたいことがあるので、少し時間をとるけど聞いてほしい」

私はそう言って、約二十分間、任意調査の限界と質問検査権の憲法的判断、そして国税庁の見解などをしゃべった。

「現況調査の限界は、北村事件の大阪高裁の確定判決で、ハッキリしている。納税者が二階は女性の寝室でもあり、上がってもらっては困るとはっきり拒否をしたのに、上席調査官は強引に上がって行った。判決は税務調査そのものが違法と断罪した。北村事件では所得税法二三四条の質問検査権について、高裁は間接強制という見解を示した。調査拒否罪や不答弁罪などの刑罰が規定されているから......や。その後、大阪国税局は " 現況調査の手引き " をだして職員に研修をしたんでんな」

私の話を三人の税務署員は黙って聞いていた。二人の上席も一言も発しない。私はさらに続けた。

「税務調査には国税犯則取締法による強制調査と個別税法による任意調査に大きく分けることができる。国犯法に基づく調査は原則は任意調査であるが、例外的に裁判所の捜査令状を持ってくることがある。これは刑事事件であり、臨検、捜索、差押、領置などができると第一条に規定されている。今回は法人税法一五三条による調査でしょ?」

わざと私は条文を言った。すると深田上席がすかさず、

「質問検査権のことですね」

と、口をいれた。岡本は黙っていた。彼は時々、首を軽く縦に振ることはあっても、私の話に一言も反論をしない。

「そうです。一五三条には、必要があるときは質問し、検査することができるとある。その必要があるときとは、A,B社について具体的に言ってくださいな」

「確認です。所得の確認ですよ。特別な理由なんかありません」

岡本が答えた。答えになっていないので、私はさらに突っ込んだ。

「天王寺税務署には五百あるのか、千社あるのか知らないが、数ある法人の中から、なぜA社、B社が調査対象に選ばれたのかその理由を聞いているんですよ」

「確認としか言いようがありません」

選定理由、調査理由には全くなっていない。
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