論文

> 隠された「昭和税制史」
実録  税務調査
大阪会  西田  富一

「一五三条には必要があるとき、と規定されている。確認という一般的なことではない。理由です理由......。調査の必要性ですよ。たとえば重要資料があるとか、仮名預金をしているとか、架空人件費の計上が疑われるとか......」

これまでも、私の経験ではほとんど調査理由を言わない。十年、十五年と調査がない法人もある。B社は設立三期めで、法人税の申告は2回提出しただけである。A社は五期めだ。

確認調査とはまことに便利な言葉だ。あの日でも、「現金商売で、確認です」と何回聞いたことか! 現金商売は必ず売上を除外しているものだ、と聞こえる。たしかに一部の不心得者は、そうかもしれない。しかし大部分の国民・納税者は真面目に申告し納税している。三人ともそれ以上何も言わない。少し場が白けてきたように思えた。私は場の空気を感じながら、あまり時間をとってもしかたないので、次に移ろうと思った。

「ここにちゃんと必要な帳簿や書類など用意しているので自由に調べてもらったらいいが、もう一点言っておく。社長の机の引き出しを開けてほしい、金庫の中を見せてほしいなどの現況調査はお断りする。コピーも断る。帳簿の持ち帰りもお断りします。以上の三つのことを前もって言っておきますので......」

三人とも何も言わない。私の話をじっと聴いているだけである。彼らがどう考えているのか、私は少々気になったので一番年長者の橋本の顔をじっと見た。

「私の言ったことで、何か間違いがあったら反論してくださいよ」

しばらく沈黙の時が流れた。私はネクタイを少し緩め、お茶を一口呑んだ。

「いいえ、別にありません」

橋本のか細い声が聞こえた。内心では、うるさいことを言う税理士だなあ、早いこと調査を始めたいのに、とでも思っているのだろうか?
この際、彼らにも大きな目で物事を判断し、日本の税務行政はこれでいいのか、考えてもらういい機会だと私は思った。

橋本は、自分のすぐ左側に、帳簿書類が並んでいるので、ちらちらと目がそちらにいっているのがわかる。否、目だけではなく心がすでに帳簿調査のほうに向いているに違いない。時計を見ると一時四十分を過ぎていた。我が国には、納税者の権利憲章がないがゆえに、野蛮な税務調査が横行しており、OECDからも納税者の権利保護の規定を確立、整備するように何回も『勧告』されていることも言った。

「みなさんも成績競争主義に追われ大変ですね。いろいろとしゃべりましたが、何か言うことはありませんか」

これにも三人とも黙っていた。しばらくして岡本が、

「えーと、会社の概要と記帳手順を聞きたいのですが」

そろそろ本調査にはいりたいと考えているのだろう。

「では、ここに社長が座ってもらって、私と交代しましょう」

そう言って私は席から立ち上がった。二人の社長は岡本の前に座った。きょうは二人とも割烹着ではなくスポーツシャツの上にスーツを着ている。劉の左手には指輪が光っていた。

岡本が二社の概略と記帳手順を聞きだした。劉と北村は交互に答えている。両脇に上席二人がメモをしている。十五分ほど岡本だけが聞き取りをした。

いよいよ帳簿調査である。三人は手分けして、岡本は主に銀行預金の入金を調べる。深田は架空人件費がないかどうか、橋本は仕入と経費について調査する。

「××××××××××××××ですか」
「いいえ、××××××××××です」

「それから、×××××××××××××××××はどうですか」
「はい、×××××××ですよ」

「×××××××××なのは?」
「そら×××××のときもあり、×××××のこともあるやろなあ」

これは深田とB社の北村社長とのやり取りである。読者の方には何のことかわからないだろう。そう、伏せ字である。

税務署員には、個別税法と国家公務員法による二重の守秘義務が科せられている。税務行政上知りえたことを、ゆえなく漏らすと守秘義務違反になる。A、B社の商取引の内容が税務署員によって第三者に知らしめると守秘義務違反に問われることになるのだろう。

税理士にも税理士法上、守秘義務が科されている。税理士は秘密保持のことを真剣に考えたことがあるだろうか。私は今、ノンフィクションで税務調査の現場の生々しい情況を書いている。思うに、税理士の守秘義務違反は、顧問先から会社の秘密事項を第三者に漏らし、顧問先に損害を与えたと告発されて、検察庁が起訴、有罪判決がでるとどうなるのか?そんなことってありうるのか。

岡本が帳簿調査の結果、劉にA、B社の両方から役員報酬を得ていることを指摘された。そして、劉は確定申告を忘れていたとする。こういったことを書くと、これが税理士の守秘義務違反になるのだろうか?
おもしろくするために作り変えることを潤色(じゅんしょく)というが、それでは真実が伝わらない。かといって、本当のことを書けば秘密保持に違反する。さて、どうするか?

税理士法三十八条には「税理士は、正当な理由がなくて、税理士業務に関して知り得た秘密を他人に洩らし、又は盗用してはならない。税理士でなくなった後においても、また同様とする」とある。これに違反すると「二年以下の懲役又は百万円以下の罰金」となっている。
深田は賃金台帳と給与支払明細書を調べている。時々総勘定元帳を取り寄せ給料賃金の科目を見ている。

「×××××××××××雑収入に入れてもらう必要があるのでは?」
「×××××××××××なら、そうでしょうな」

橋本が北村に聞き、北村が答えている。藤澤が心配そうに、総勘元帳を繰っていた。

岡本が
「×××××××××は××××が経営しているのですか」
と劉に尋ねた。

「××××××××ですよ」
「前に×××××××××のようでしたよ」
「そりゃ××××××のことです」

王が私の側へ来た。
「ターメンチェンチャァ、タオチィティンワンラマ」(この人たち何時ごろまで調べるのかしら)

中国語で私に話しかけてきた。私も彼女に中国語で答えた。
「シエンチャイウォプゥチィタオ。イイパン、ウォシァンスウティエンワンラ。ニィヨゥテァルタンシンマ」(今のところわからないが、普通4時ごろには終わるでしょう。少し心配ですか)

深田が不思議そうに私に尋ねた。
「先生、中国語ができるのですか」
「ええ、少しは」

さらに王は中国語で聞いてきた。
「カァプカァイフイル」(賄賂はだめですか)
「タァメンプゥチフイル。リィペンプシン」
(日本ではダメです。賄賂は受け取りませんよ)

中国では袖の下がまかり通っているようだ。中国でも税務調査があり、袖の下を渡し、一件落着となることがよくあるらしい。時々、地方幹部らが逮捕されたという記事を目にする。地区書記も大きな権限をもっている。天安門事件は、もともと市民・学生が汚職・腐敗根絶、民主化要求を掲げた出来事であった。
三時半ごろ、劉と北村が五時開店の準備をするのでと断って仕事に出て行った。私は、その後の席に座りなおした。

王がまた中国語で私に話しかけてきた。こういうときには非常に便利である。二人で堂々と内緒話しをしても、中国語がわからない人には何を言っているのかわからない......。どうやら彼女の言い分は、一歳半の娘の面倒を人に頼んでいるが、そろそろこの場を引き揚げたいらしい。私はいいですよ、後は南村さんに任せたら、と帰ってもらった。もう四時を過ぎている。

「えーと、もうそろそろ失礼しますが、次回はいつにしたらいいでしょうか」

岡本が聞いてきた。まだまだ調べることがあるらしい。三人とも鞄を開け、しまいだした。私は、できるだけはやく終わってもらいたいので来週にでも、と手帳の予定欄を見ていた。岡本は、年度末でもあり四月になってからにしてほしいと言いだした。結局、四月九日、午後一時になった。もっとも二人の社長の予定を聞いて、都合が悪かったら電話する、ということになった。
四時半ごろ三人は帰って行った。天王寺税務署まで徒歩で十分ほどらしい。
南村は湯呑みをかたづけながら、何かすっきりしない気持ちでいるようだ。

「税務署は何か切り札を持っているのでしょうか」

南村は独り言をいうように呟いた。私は彼女の心配している事がわからないでもない。一日、調べただけで、まだ調査の入り口に入っただけである。当然、三人は手分けしてポイントを調べていたに違いない。この日は、三人は質問はしたが、問題点や不審な点を我々にあまり言わない。

「そら、何か切り札があれば、最後にエースの札は出すやろうな。彼らは、次の時に不審点を言うでしょうね」

下駄を履くまでわからない、とはよく言ったものだ。

「先生の始めの話は、効いていると思うわ」

南村は歯に力を入れて、言った。藤澤と私が事務所へ帰ったのは、陽もとっぷりと暮れ七時を過ぎていた。

四月九日前回同様、藤澤と私は十二時半に会社へ着くことにした。
午後一時ちょうどに、天王寺税務署の三人がA、B社にやって来た。この日は初夏を思わせる暖かい日である。二十三、四度はあるだろう。一週間ほど前は、冬に逆戻りしたような肌寒さだった。岡本は、ハンカチで汗を拭いながら、

「失礼して上着を脱がさしてもらいます」

と言って、スーツを応接セットの椅子の隅に置いた。

「桜が満開ですね。花見に、どこか行かれましたか」

めずらしく深田が世間話をしだした。私も花見のことを言おうとしたが、その前に劉が北村の顔を見ながら、

「月曜日に大阪城公園に行ってきたけど、人ごみでいっぱいやったわ」

続いて北村が、

「調査が終わらんと気持ちよく飲めへんかった」

と笑いながら、月曜日が定休日で、十七、八人で賑やかに花見に行ってきた状況を話した。

「どうですの? 税務署は花見に行くことはないんですか」

「ありませんな。行くとしたら、日曜日にでも気のあった者で行くことになるでしょうな」

岡本が物静かな声で、ネガネを右手で押さえながら言った。
前回と同じように応接セットの横に帳簿書類、預金通帳などA社、B社と分けて並べてある。

「そろそろ調べに入りたいので......」

いつまでも世間話をしているわけにはいかないので、岡本は腰を上げた。
総勘定元帳の預金勘定と預金通帳と照合をしだした。

「この他に、銀行取引はありませんか」

岡本は藤澤の方を見て、質問した。岡本の言い方は、そんなに自信のある質問の仕方ではなかった。当然、会社から提示された銀行取引しか仕訳していない。

「えっ、簿外預金があるんですか」

私は、岡本のメモを覗きながら尋ねた。日ごろから、お互い信頼関係を保つために税理士には包み隠さず明らかにしてほしい、と二人の社長には言っていた。

「劉さん個人の預金ですが、あるはずです」

「僕、個人の貯金はありますよ。会社の取引と関係ないです。あくまでも僕の......」

劉が前かがみになって、岡本に答えた。

「それも見せてほしいのですが」

A社の代表取締役でもあり、たとえ会社とは無関係であっても、税務署員の質問検査権の及ぶ範囲である、と私は劉に説明した。

「そらだれでも預金通帳の一つや二つは持っている。会社とは無関係なら、見せたら彼らの疑いが晴れる」

私は劉の顔色を見ながら言ったが、劉は落ち着いたものである。

「いまここには、ありません。家にあるのでこれから取りに行ってきます」

自宅は歩いて五、六分のところにある。

「もう銀行調査に行ったのですか」

私は岡本に聞いた。

「まだ行っていません。口座があることしか......、中味まで知りません」

深田は相変わらず人件費を調べている。給与明細書、源泉徴収簿、現金勘定など何もしゃべらずに黙々と調べている。架空人件費があるとでも思っているのだろうか。
橋本はレジペーパ、売上げ伝票、日報など丹念に見ている。時々、王に質問しているので、王は私の方を見た。

「いいですよ、王さんが答えて貰ったら」

二人は事務机でやりとりしている。橋本の声が大きくなった。

「この日は千八百円、合いませんなあ」

橋本の言うには、レジの十五万四千二百円の売上げを日報に十五万二千四百円と転記していた。
単なる転記誤りだと思われるが、この日は千八百円の売上げもれを言い出した。売上げを何日分調べたのか分からないが、あまり目くじらを立てて言うほどのことではない。

四時を過ぎた。劉が通帳を片手に戻ってきた。額に汗を浮かべている。
岡本はすぐにその通帳の入出金をチェックした。会社の売上げが入っていなかったのか、すみませんでした、と言って劉に返した。
三人が応接セットに集まり、小さな声でどうするか相談しているようである。

「もうこれで終わりますので×××××××と×××××だけ修正してもらったら、いいので......」

ほんの軽微な金額で調査は終了した。(了)

(にしだ・とみかず)

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