論文

> 日本国憲法と「軍事」「軍隊」
新春インタビュー
シリーズ先人に聴く
第1回(上)伊藤清 会員
聞き手  新国  信・平石共子  

税経新人会全国協議会は1965(昭和45)年7月に結成し、現在創立44周年を迎えています。昨年は新人会の創立の原点を承継しようと、4月に若手会員を中心に会員特別研修、12月には常任理事会の研修として、新国信前理事長を講師に新人会の歴史を学ぶ取り組みが行われました。そして、もう一つ忘れてならないのが先輩会員から学ぶことです。新人会には個性的で熱い心を持ち続けている優れた先輩会員がたくさんいらっしゃいます。そういった先輩たちの生の声をみなさんに、特に若い会員に届けようと、新シリーズ「先人に聴く」を企画しました。第1回目は、今なお全国研究集会や秋季シンポジウム、税経新報誌上で、元気に私たちを導いてくれる伊藤清会員です。

私の生まれた1919年
  税理士になる前のことをお聞きしたいのですが、商工新聞の随想に戦争で体験したことをたくさん書かれていますね。戦争をむかえ、終戦、戦後とつながっていくと思いますが、戦前のことからお話いただけますか。
伊藤 戦争に負けたのを知ったのは8月15日の翌日16日、揚子江の一番上流イーチャンというところです。それから武装解除、上海経由で日本に帰還したのは翌年の春で、足掛け5年日本を離れていたことになります。

その前に私が生まれたころについて話しておきたいと思います。
1919(大正8)年、朝鮮で殖民二世として生まれ、中学(旧制5年制)まですごしました。私が生まれた1919年という年は、ロシア10月革命の2年後で、ロシア革命の民族自決権の思想は、欧米資本主義国によって半植民地的な状況にあった中国や日本の植民地であった朝鮮の民衆に大きな影響を与えたものと思われます。

朝鮮では日本からの独立を叫んだ三・一独立運動が半島全域に燃え広がったことを親から聞きました。中国では労働者・学生・市民による日貨排斥の五・四運動が各地に巻き起こりました。1919年は、そうした民族自決を求める歴史的事件のあった年です。

さらに忘れてならないのは、この年いまも高い評価をうけるワイマール憲法が生まれたことです。私がこれらの歴史上の出来事を知ったのは勿論ずっと後になってからですが、ワイマールの歴史は、今も私の関心を強くひきつけています。それはなぜかというと、民主的な憲法のもと、ヒットラーのナチスが合法的にドイツの政権を奪取したからです。東京都知事選挙で、石原慎太郎氏が都民の圧倒的な支持を受けて最初に当選したとき、私はいくつかの会合で民主的なワイマール憲法のもとで独裁者ヒットラーが勝利した例を繰り返し話した記憶があります。今日の日本の右傾化の状況の中で、私たちはワイマールの歴史に学ぶことが少なくないという思いが強いからです。
中国からの復員船のなかで
  生まれ育った時代の潮流が先生の体の中に今でも脈々と流れていることが伝わってきます。それから兵隊として戦場に行くわけですが、その前はどのような状況だったのでしょうか。
伊藤 私は2つの憲法を体験してきました。幸か不幸か、今体験を語ることができるのは89年生きてきたお陰かもしれません。2つの憲法とは、いうまでもなく絶対主義的神権天皇制の明治憲法と、現在の象徴天皇制のもとで、国民主権、平和主義、人権尊重を謳っている日本国憲法の2つです。

明治憲法の神権天皇制を支えた2つの制度は、教育勅語によって忠君愛国の思想を注入した教育制度とその延長での軍隊教育であり、もう1つはこれに反する思想を死刑を含む厳罰を規定した治安維持法によって禁圧した司法警察制度です。

特に戦争末期に近づくと思想統制は厳しくなり、軍国主義に疑問を持つだけでも治安維持法違反として特別高等警察、当時は特高、特高といって恐れたもんですが、この特高により逮捕されるようになります。

1939(昭和14)年、それは日本が侵略していた中国の戦場の泥沼化からの活路を求めて無謀な太平洋戦争に打って出る3年前のことです。特高は、二十歳前の思想的にも学問的にも極めて未熟な私までも治安維持法違反で逮捕し、1年半の拘禁の後に執行猶予とはいえ不当な有罪判決をデッチあげました。

当時、九州の火野葦平が「糞尿譚」で芥川賞を受賞したんですね。そのことが刺激となって地方都市での文学活動も盛んでした。私は学外の文学好きの青年たちと同人雑誌を発行していました。仲間のなかには左翼くずれの年長者もいましたし、政治には無関心な画家もいましたし、思想的にどうこうという集まりではなかったのです。

小説にしろ評論にしろ、みな当局の検閲をうけてパスしてはじめて発表が許さる時代ですから、天皇制や戦争にふれるような言葉は神経質なほど慎重になっていましたね。私個人としてはようやく社会科学について関心をもちはじめ、マルクス主義関係の文献を集めていた矢先でした。

だから逮捕されたときは、なんで逮捕されたのか、狐に化かされたような感じでした。しかし特高は、私の内心を問い詰めてきたのです。花を美しく咲いていると詩に書けば、その花はマルクス・レーニン主義のことを指しているのだろう、鳥が勇ましく空に舞上がると書けば、その鳥はソビエット・ロシアを暗示しているのだろう、と迫ってきます。人間の内心をえぐりだし、それを治安維持法でひっかけようというのですね。

もう私たち人間の内心の自由、考える自由さえ許さないということです。まるっきり無茶苦茶ですね。思想統制の厳しい当時は、特高警察は、こうした思想犯罪をデッチ上げればお手柄として褒められ、出世できるんですから、かれらのいい餌食にされたようなもんだと思いますよ。

とにかく当時の思想弾圧に特高がいかに狂奔していたか、いかにひどいものであったかがお分かりいただけたでしょう。そして、私は学校を追われ、放校処分となり、中国の戦場に駆り出され、その後5年の歳月を中国の前線で一兵卒として過ごすことになったわけです。
  終戦をむかえてどんな気持ちだったのでしょうか。
伊藤 生きて還れるとは夢にも考えられなかった私にとって、日本軍の敗北による戦争の終結は、どんなに大きな喜びであったか、軍隊の内実や人間が殺しあう戦争を知らない皆さんには想像もつかないことと思います。生きて戦争の終結を迎えた喜びとともに、私の腹の底には、天皇の股肱(ここう)として中国侵略を行った大日本帝国軍隊の敗北に対して、「ざまを見ろ」とひそかに快哉(かいさい)を叫ぶものがありました。

中国からの復員船のなかで私の心を占めていたのは、生きて還った私は戦争でムザムザと死んだ多くの仲間たちのために何をしなければならないか、という思いだけでした。言うまでもなく、それは戦争を引き起こした天皇制国家の支配者たちへの報復でなければなりませんでした。

そうした若い一途な気持ちは、やがて年とともに薄れていくことになるのですが、やはり私の生きている限り何時までも、その赦しがたい天皇制国家への怨念は消え去ることがないのかもしれません。
憲法押し付け論について
  戦後の新しい憲法について、最近押し付けられたものだから、「改正」すべきという意見がありますが、どのようにお考えですか。
伊藤 私は、この憲法押し付け論は、今それを論じている日本の支配者たちの心情としては正直なところだと思います。日本の支配層は、明治憲法を手直しすることで神権天皇制の国体を何とか維持したいと願い、マッカーサー原案に抵抗していたのですから。彼らにとって意に反した象徴天皇制を押し付けられたという屈辱感があるのは当然といえます。

私が復員して還ってきたときは、まだ憲法はつくられていませんでした。しかし、食糧が手に入りませんから「コメよこせ」と叫んでデモをし、今こそ日本を民主化する好機と捉えて、「吉田内閣打倒、人民政府をつくれ」などという政治的スローガンを掲げたデモ行進を全国的に展開したことを記憶しています。そうした反政府デモは、敗戦前の日本では考えられなかったことで、確かにその時期私たちの手には思想の自由、表現の自由を勝ち取ったという実感がありました。

その後成立した日本国憲法は、国際的な民主勢力の支援を受けて実現したものではありますが、戦前、戦中の苦難の時代を耐え、地下を流れる水脈のようにわれわれ民衆の心の中に脈々と生きていた民主、人権、自由がいま日の目を見たという喜びであり、押し付けられた憲法という意識は、コレッポチもありませんでした。

「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」という憲法第97条の言葉を、私は身に沁みて納得したのでした。
税理士という職業
  戦後、日本に帰還して仕事はどうされたんですか。
伊藤 敗戦によって、私は兵隊の身分から解放されましたが、それは汚れた兵隊服一つで社会に投げ出されたということでした。中国から帰還した私を迎えてくれたのは、植民地朝鮮からの引揚者として、故郷の海浜の借家で細々と暮らしていた両親でした。

大根を混ぜた水っぽい弁当を下げての私の職探しが、さっそく始まりました。
敗戦当時も、定職のない不安は外地からの引揚者や復員軍人にとって非常に深刻な問題でした。
恋愛や結婚と同じように、職業の選択もまた偶然に支配されることが多いのではないでしょうか。

私も、戦地から還った26歳の年に結婚しましたが、教師をしていた妻の兄の口利きで、臨時雇いの教師の職にありついたのを皮切りに、広島教員組合の専従になったりして、収入としてはわずかでも社会変革に役立つと信じて献身した職業につくなど、いろいろな職業を転々とすることになります。

そうしたなか、60年安保の数年前ごろから、私はある小さな電機メーカーの経理担当の役員をしていました。そのころプロ野球のナイターが始まったのですが、まだテレビがなくラジオの時代でしたが、どこのラジオ局も野球放送をしない、ただ日本短波放送だけが短波で実況放送をはじめたんです。ところがそのころ一般に皆がもっていた真空管の5球スーパーでは短波が聞けないんです。そのとき私の会社でそのラジオに取り付けて短波の聞けるチューナーを開発して売出したんですね。

これがバカ受けして秋葉原の問屋筋が殺到してきました。ところがチューナーそのものは簡単な機械ですから、まもなく模造品がでてきたのと、これに目をつけたナショナルがオールウェーブのラジオを発売しだしたため、2年足らずで売上がバッタリ止まって、倉庫に相当の金額になる材料の山ができたんです。始末に困って東京都の理科の先生の団体に相談したところ、当時都内の中学は教材不足で悩んでいたもんですから、ぜひ貰いたいということになり、その在庫を教材として無償で配布しました。私はその年の法人税の申告で、それを税務上の特定寄付金として損金処理したのです。ところがこの寄付金処理を税務署は否認してきたんです。

そこで税務署とのすったもんだがはじまったのですが、それまで私の会社では弁理士とつきあいはありましたが、税理士とはつきあいは全くありませんでした。私も税理士という職業のあることだけは知っていましたが、納税者にとって頼りになる存在という認識はこれっぽちもなかったんですね。

いま考えてみると、それは戦後の過酷な徴税に対し納税者が苦しんでいたとき、生活擁護同盟や民主商工会などの民主団体が納税者のために献身的に活動していたのに対し、税理士、当時は税務代理士ですが、その税務代理士が苦しんでいる国民納税者のために何か働いたというような印象が全くなかったということがあって、それが原因していたのかもしれませんね。ですから税務上困ったことがあっても、相談相手として税理士という職業人が頭に浮かぶことが全くなかったということがあります。

法律上の悩み事とか、訴訟となれば弁護士がすぐ頭に浮かびますね。これと税金で困っても税理士が頭に浮かんでこない、ここに大きな違いがあったことになります。いまはどうでしょうかね。

話は戻りますが、税務署で寄付金の損金算入が否認され、当時は国税不服審判所のない頃で、国税局に不服申し立てを処理する協議団という機関があって、そこに審査請求を行い、かなり長期に折衝の末こちらの主張が通って更正処分は取り消されました。これは面白い、こうして業者のために税務署の不当な処分を取り消させる不服申し立てはなかなか面白い仕事だと思いつき、税理士試験を受験することにしました。これも偶然といえば偶然です。

その後何年かして身体をこわしたために会社を退職したことを機会に、50歳をいくつか過ぎてから、顧問先は一軒もなく自宅で1人で仕事を始めました。

ところが、税理士の仕事はやってみると記帳代行が大部分で、不服申し立ての依頼などほとんどないことがわかりました。大いに期待を裏切られましたが、税務調査に臨場して調査官と折衝するうちに、納税者のための税理士の仕事は、不服申し立てだけではないこともわかってきました。それでも、不服申し立てはしょっちゅうやりました。他の税理士から持ち込まれたりして、年に2、3件やったこともあります。
  税理士になってから、新人会との出会い、きっかけは何ですか。
伊藤 新人会は、経理の仕事をしていたときから知っていたので、税理士資格登録後、すぐに東京税経新人会に入り、判例研究会に顔を出し始めました。

千葉会の独立を機に東京会から離れ、2代目の会長を3年くらいつとめ、全国協議会副理事長4年、理事長4年やらせていただきました。全国の8年間は牛島税理士訴訟の真只中でした。

この訴訟について、税理士会が新入会員に積極的に話すことは恐らくあまりないのではないでしょうかね。むしろ話したがらないのでないかという気がします。

だとするとこの訴訟の意義について話すことは、これからも新人会の大切な役目というか、仕事の一つだと考えます。
牛島税理士訴訟の意義
  牛島税理士訴訟は、私たちも承継していかなければならない重要な問題と認識しています。是非、お聞かせください。
伊藤 ここでこの事件について短い時間で若い方に簡単にお話すると、牛島税理士は、南九州税理士会の会員でした。当時は南九州税理士会だけでなく全国の税理士会は、税理士法を改正する運動に取り組んでいました。

この改正が本当に国民や税理士にためになる改正であったか、どうか、ということは非常に重要な問題ですが、それはいまここでは問わないで話を進めることにします。

牛島税理士の所属する税理士会はその改正運動の資金として、会員一人当たり5,000円の特別会費を徴収して、これをその運動に当たる税政連に寄付することを総会で決議しました。

しかし牛島税理士は、この決議に反対して、その特別会費を納入しませんでした。会費未納者には会の役員選挙の選挙権・被選挙権を与えないとする会の規則があります。会ではこの規則に基づいてその選挙についての権利を牛島税理士に与えないという処分をしました。

牛島税理士は、そもそも税政連に寄付するために特別会費を徴収すると決めた総会決議は、税政連への寄付に反対の会員の思想・信条の自由を侵害するから無効である。従って特別会費納入の義務はないとしてその確認と選挙権を奪った処分の取り消し、その処分によって受けた損害の賠償を求めて、訴訟を提起したのです。

ですからこの訴訟は、本来は憲法19条の思想・信条の自由にかかわる問題ですね。しかし原告の牛島税理士が訴えている相手の被告南九州税理士会は国家機関ではなく私的な団体です。そのため、最高裁での争点は、税政連への寄付が税理士会の目的の範囲内であるか、どうか、という民法43条の問題とされました。

この点について最高裁は、税政連への寄付は税理士会の目的の範囲外の行為とし、だから税政連に寄付するために特別会費を徴収するとした総会決議は無効であるとしたのです。なぜ税政連への寄付が目的の範囲外か、その理由の中で、最高裁は次のような趣旨のことを述べているのです。

税理士会は国の法律によってあらかじめその目的を決められて設立されていて、その目的に従って運営されるよう政府に厳しく監督されている団体である、だからその目的の範囲は厳格に解釈されなければいけない。

そうすると税政連のような政治団体に寄付することは税理士会の目的の範囲には入らないとね。だから当然決議は無効ということになります。また最高裁は思想・信条の自由の関係で、次のような趣旨のことを述べています。このことは非常に重要だと思います。

税政連は政治団体ですから、選挙にあたって、特定の政党の特定の候補者を推薦し、その後援会を組織し、集票活動をしていることはどなたもご存知のとおりですね。この税政連に寄付することは、選挙において税政連の支持・支援する特定の政治家に投票することと同じことだというわけです。税理士会は強制加入ですから、いろいろな思想・信条の持主が入っています。

会員の中には税政連の支持・支援する政党・政治家を支持しない税理士もとうぜん存在するとみなければいけませんね。

ですからその強制加入の税理士会が、税政連に寄付するための特別会費を強制的に会員から徴収することは、この税政連の支持する政党・政治家を支持しない税理士の思想・信条の自由を侵害することになるのはいうまでもないことです。その思想・信条の自由を侵害するという点から考えても税政連への寄付は、税理士会の目的の範囲外というわけです。

ここには憲法19条違反とか、それを踏まえた民法90条の公序良俗違反というような言葉はありませんが、それを含意していることはいうまでもありませんね。このような特定の政党の特定の政治家を支持・支援している税政連を税理士会と一体のものだといって税政連は税理士の入会を強く勧奨しています。税理士会もこれを容認しています。これを見るだけで、牛島税理士訴訟の問題はまだ片付いていないということを強く感じますね。

またこの問題は税理士会だけではありません。わが国ぜんたいの政治風土の問題といえます。司法の領域でいえば、八幡製鉄政治献金事件の最高裁大法廷判決が覆えされない限り、問題は解決しないといえるのかもしれませんね。なお、現在国税庁のアウトソーシング業務が問題になっていますが、この業務を会員に強制することは、税政連への寄付とは次元が異なりますが、会員の思想・信条の自由の問題として大いに検討する必要があるのではないかと思いますよ。
2月号へ、つづく

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