戦災資料センターは、1970年民間で発足した「東京空襲を記録する会」を前身としている。大規模なものとしてははじめて、一般の人たちから空襲体験を募集し、東京都の助成を得て記録集にまとめた(『東京大空襲・戦災誌』全5巻)。その活動を引き継いで発足した戦災資料センターにとって、「空襲体験」を聞くことは、繰り返し立ち戻る原点である。そこで、まず、昨年のつどいで語られた、二瓶治代さんの体験に耳を傾けてみよう。二瓶さんは当時8歳、被災地の真っただ中である亀戸で暮らしていた。今は資料センターで図書の整理を担当するかたわら、訪れる修学旅行生などに空襲体験を語り伝えている。
「1945年、3月10日、ここ亀戸は一面火の海でした。空も、まわりの家々も、地面もごうごうと唸る、猛り狂う炎の風に包まれていました。「火の粉」は容赦なく横殴りに吹きつけ追いかけてきます。畳や障子、屋根瓦やトタンなどが燃えながら吹っ飛んできました。その中を人はみな亀戸駅の方に向かって走っていました。反対の方に行く人は誰もいませんでした。髪は燃え、服は燃え、背負われた子どもは母親の背中で燃えていました。お母さんに手を引かれている小さな子どもたちも燃えながら走っていました。人はみな生きたまま紅蓮の炎に呑み込まれていったのです」(東京大空襲・戦災資料センター編『語り継ぐ東京大空襲いま思い考えること』2007年)。
この日の空襲では、約10万人の人々が亡くなったといわれる。まさにその渦中に投げ込まれた、8歳のまなざしが見つめた63年前の光景である。短い語りのなかで、二瓶さんはこの日以来2度と出会うことのなかった人たちに触れている。前の日の夕方まで一緒に遊んでいた近所の子供たち、大の仲良しで防火用水の氷をカンカン砕いていた男の子、消防ホースを持ったまま燃え尽きていった消防士たち、「ヤマトダマシイ、ニッポンジン」と叫ぶ男の声、一糸まとわず、火傷のまますっぽんぽんの姿で親を探す子供、まるでごみ屑か、木の葉のように焼き殺され、路上に放り出された人たち―何も語れず消えて行った人たちの声が、二瓶さんにとって、今もこの巨大都市・東京にこだましているのである。 |