論文

特別寄稿 > 特集滞納問題「滞納事例、その対応と教訓」
靖国問題を考える
日本大学名誉教授・法学博士北野弘久  

1はじめに

筆者は昨年(05年)、3回北京へ訪問した。第1回目は、5月の北京大学主催の国際セミナーでの報告と北京大学法学院大学院生への特別講義のために訪問した。第2回目は、7月の北京大学法学院大学院での夏期集中講義のために訪問した。そして第3回目は、10月の世界納税者連盟(WTA:World Taxpayers Associations)太平洋・アジア地区納税者連盟(APTU:Asia-Pacific Taxpayers Union)設立総会へ出席のための訪問であった。

第3回目の06年10月17日から21日までの5日間、北京のホテルで見た、中国国際放送(英語)テレビは、連日、小泉純一郎批判を行った。なんでも小泉純一郎総理が「靖国参拝については適切に対処する」と中国首脳に語ったという。そのことを中国では小泉総理は今後靖国参拝をしないであろうと受け取った。靖国の歴史的背景に鑑みて、中国側の受け取り方は自然である。小泉総理は中国との「約束」を裏切った。積み重ねて構築されてきた中日の信頼関係を破壊した、というのが中国放送の主張である。

靖国問題は、日本帝国主義・日本軍国主義の行った侵略戦争への歴史認識に関する問題である。その侵略戦争を指導をしたA級戦犯も合祀されている靖国神社に日本国の総理が参拝することは、単に日本国内における総理の「心の問題」ではなく、中国・韓国等のアジアの人々にとっては、まさにヒットラーを参拝するようなものである。

そして、重要なことは、小泉総理の靖国参拝強行は、私たちの文化遺産である日本国憲法9条2項(軍隊・戦力の不保持、国の交戦権の否定)を廃棄しようという流れと深くつながっているという点である。

以下、靖国問題の本質を歴史的に客観的に見極めることとしたい。

2靖国神社の経緯

明治になって各地の招魂場を招魂社と改称した。文献によれば、1869年(明治2)に東京招魂社が設立された。1879年(明治12)に東京招魂社を靖国神社となる。1939年(昭和14)に、各地の招魂社を護国神社と改称。靖国神社も招魂社の1つであったが、改称しなかった。
〔靖国神社の性格:戦前期〕
靖国神社は東京都千代田区九段北にあり、別格官弊社であった。1887年から陸海軍省の管轄。実質的には半ば軍事施設であった。明治維新およびそれ以後に戦争など国事に殉じた者250万余(現在)の霊を合祀。靖国神社では名簿が祭神。したがって祭神が増えつづけることになる。靖国神社は、1945年(昭和20)までの戦前期においてはまさに日本軍国主義・日本帝国主義の精神的支柱であった。

明治維新前後の内乱 7,751
西南戦争ほか 6,971
日清戦争 13,619
台湾出兵ほか  1,130
北清事変(義和団事変) 1,256
日露戦争・韓国鎮圧 88,429
第1次世界大戦・シベリア出兵など 4,850
済南事変など(山東出兵) 185
満州事変など  17,161
日中戦争 188,196
太平洋戦争 2,123,651
2,453,199
〔出典〕大江志乃夫『靖国神社』1984
大江志乃夫『靖国神社』によれば、靖国神社は「明治時代以後、天皇・皇族を除く一般国民が国家の手によって神として祀られる唯一の神社」、「靖国神社の神となるためのただひとつの条件は、天皇陛下のために戦死すること。『名誉の戦死』であった」。

戦前期の靖国神社問題と深い関係のある旧神道について若干のコメントをしておきたい。旧神道は神社神道と教派神道に分かれる。神社神道は「国家の祭祀」であり国家神道であった。

別言すれば、国家神道は「超宗教」としての神道であった。教派神道は、通常の意味での宗教としての神道であって神道大教、黒住教、金光教、大社教(出雲大社)、天理教など13派があった。

高橋哲哉『靖国問題』によれば、次のような趣旨の記述がある。

「『靖国信仰』は国家神道。『お天子様』すなわち『お国』を神とする宗教。『国家教』という宗教。靖国参拝は『国民としての公の義務』」。また、同書において河上肇『日本独特の国家主義』(1911)の論文の一部を紹介している。すなわち、「日本は神国。国は即ち神。日本人の神は国家なり。而(しこう)して天皇はこの神たる国体を代表したまうところの者にて、いわば抽象的な国家神を具体的にした者がわが国の天皇なり。ゆえに日本人の信仰よりすれば、皇位即ち神位なり、天皇は即ち神人なり。国家主義は日本人の宗教たり。故に看よ、この国家主義に殉じたる者は死後皆な神として祀られることを。靖国神社はその一なり」。

小学館『日本20世紀館』1999には次の趣旨の記述がある。

「戦前の日本において、天皇は『現人神』(あらひとがみ)であった。国家神道は天皇を天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫とし、すべての神社が天照大神を祀る伊勢神宮を総本山として統制された。国家神道は、大日本帝国憲法や教育勅語などによって国民の間に定着し、太平洋戦争期には日本国民を戦争に駆り立てた超国家主義思想の理論的支柱となった。敗戦により、元首であり元帥であった天皇は、その戦争責任を問われることなく『現人神』から『人間』へと変身した。米国は、玉砕や特攻などに見られた日本人の狂信的な死生観の背後に国家神道があると分析、戦後処理構想に『信教の自由』を考えていた。天皇制の温存と国家神道の解体が結びつき、『人間天皇』への道が開かれていった」。
〔靖国神社の性格:戦後〕
1951年4月に宗教法人法(昭和26年法律126号)が制定・施行された。1952年9月に靖国神社は東京都知事の認証を受けて単立の宗教法人となった。

1956年3月14日に自民党が「靖国神社法草案要綱」(靖国神社の宗教性を抜いたうえでの国営化構想)を発表。1956年3月22日に日本社会党が「靖国平和堂(仮称)に関する法律案要綱」(国立施設としての靖国平和堂)を発表。1962年8月15日に日本遺族会が「靖国神社国家護持要綱」(靖国神社は国事に殉じた人々の「みたま」を靖国の神として奉斎する)を衆参両院議長に提出。1969年6月30日に自民党が靖国神社法案を国会に提出。

同法案1条「靖国神社は、戦没者及び国事に殉じた人々の英霊に対する国民の尊崇の念を表すため、その遺徳をしのび、これを慰め、その事績をたたえる儀式行事等を行ない、もってその偉業を永遠に伝えることを目的とする」。靖国神社を別法人にして内閣総理大臣が管轄する。宗教法人ではなく特殊法人とする。別言すれば、靖国神社は、「神社」であるが、宗教法人ではないとされた。靖国の「国営化」。1978年10月17日に東条英機以下A級戦犯14人を靖国神社に合祀した。

3ポツダム宣言・平和条約・極東裁判

靖国神社にA級戦犯が合祀されている。「A級戦犯」云々というと、決まって東京裁判(極東裁判)は戦勝国が一方的に行ったものであるとして、「A級戦犯」ということに正当性がないという主張が展開される。そこで、日本国がこのA級戦犯問題に対してどのように対処してきたかを確認しておきたい。

「ポツダム宣言」は1945年7月26日にアメリカ、中国、イギリスがポツダムで署名。日本国は、1945年8月14日に御前会義で受諾することを決定。その翌日、8月15日が敗戦。同宣言9項で「軍隊の解体」、10項で「戦争犯罪人の処罰・民主主義傾向の強化」を規定している。日本国は戦争犯罪人を処罰することを受諾している。

すなわち、9項「軍隊の解体。日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後、各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営む機会を得しめらるべし」。10項「戦争犯罪人の処罰・民主主義傾向の強化。吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加へらるべし。日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せらるべし」。

「日本国との平和条約」(1952年4月28日条約5号)の第11項(戦争犯罪)で、東京裁判(極東軍事裁判)などの連合国戦争犯罪の裁判の結果を日本国は受諾している。すなわち、11項「日本国は、極東軍事裁判所並びに日本国内及び国外の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない。極東軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及日本国の勧告に基づく場合の外、行使することができない」。
「東京裁判」(極東軍事裁判)。

極東国際軍事法廷設置の法的根拠は、マッカーサの命令で国際検察局が作成した「極東国際軍事裁判所条例」(46年1月公表)(45年8月8日の米、英、仏、ソによるロンドン協定に基づく)である。「通例の戦争犯罪」、「平和に対する罪」(侵略戦争の計画、準備、開始、遂行など)、「人道に対する罪」(一般市民に対する虐殺など)が審理された。

48年11月12日に判決が示された。28人の被告のうち、松岡洋右と永野修身は判決前に死亡。大川周明は精神異常で免訴。25人の被告は全員有罪。東条英機ら7人が絞首刑(48.12.23処刑)。木戸幸一ら16人が終身禁固刑、東郷茂徳は禁固20年、重光葵は禁固7年。東条ら7人の処刑の翌日、つまり48年12月24日に岸信介、笹川良一、児玉誉士夫らA級戦犯容疑者19人が釈放された。そして禁固受刑者も58年までに仮釈放・恩赦で全員出獄。

東京裁判の問題点として、裁判は真珠湾攻撃以後の日米戦争を焦点とした。柳条湖事件(1931.9.18 瀋陽〔奉天〕の郊外で満鉄線爆破)、盧溝橋事件(1937.7.7北京の郊外で演習中の日本軍に小銃弾が打ち込まれた)など中国やほかのアジアへの侵略・植民地支配の実態解明を不十分にした。アメリカの軍事的要請により関東軍防疫給水部(731部隊)の生体実験、中国戦線での細菌戦実施、中国大陸での毒ガス作戦が免責された。昭和天皇、皇族、財界人の不起訴、「戦争神社」としての靖国神社の戦争責任を問わなかった。日本空襲、原爆などのアメリカの責任を問わなかった(小学館『日本20世紀館』など)。
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