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〜めんそーれ美ら島へ〜第54回沖縄全国研究集会
美ら島紀行 その8 〜多くの犠牲出した「沖縄戦」〜
沖縄会 高良 正一
今回は沖縄戦についてお伝えしましよう。読者の中には第二次世界大戦(太平洋戦争)で、沖縄が地上戦の戦場になったことをご存知の方は多いと思います。

太平洋戦争の末期、沖縄を舞台に日本とアメリカが最後の戦争を闘いました。すさまじい戦いでありました。そのあげく、20万を越す尊い生命が失われました。県民も4人に1人が犠牲になり、町も村も野や畑もあらゆるものが焼き尽くされ、荒れ果ててしまい、県民は身も心も傷つきました。

狭い沖縄に大量の軍隊、激しい戦闘は約90日に及び、そのあげくに20万余の尊い生命が失われました。日本の兵隊が11万人、米兵が1万2000、一般住民が9万5000、軍人より住民の戦死者が多かったのも沖縄戦の特徴です。

本誌表紙の写真は沖縄戦の全戦没者を刻銘し弔う「平和の礎」碑ですが県内には多くの地域にこのような戦没者を祭る碑が見られます。

沖縄戦の米国軍の数は約54万8000、日本軍は約10万、その3分の1は現地採用の補充兵でした。兵器・弾薬も米軍が日本軍の30倍、40倍だったといわれています。量だけでなく質においても歴然としていました。なお、米兵の数は沖縄県の人口に匹敵するものでした。

米軍は沖縄本島に上陸するとき、上空から飛行機で爆弾・ロケット弾で、海上から艦砲射撃を約30分間上陸地点に浴びせた後、水陸両用車で攻撃する方法でした。日本軍が構える陣地に攻撃するときも上空から爆弾を投下、陸から大砲・戦車砲で打ち込んだ後、兵士が乗り込む闘いの方法でした。武器の量、質とも差は歴然で日本軍は果敢に応戦するもどうにもなりませんでした。

米軍の砲撃を目にした住民は“ まるで雨が降るようだ” と口々に表現しました。また、戦後、沖縄戦を称して「鉄の暴風」と解説する研究家もいます。

沖縄戦での日本軍は沖縄の住民の生命財産を守るために配備されたのではありませんでした。天皇を中心とした国家体制を守るため、米軍の本土上陸に備える時間稼ぎのために住民を巻き込んだ凄惨な地上戦を長期にわたって展開したのです。戦前の沖縄の各学校には御真影(天皇皇后の写真)や教育勅語を奉納した奉安殿が設置されていて登校する児童は奉安殿の前で最敬礼しなければなりませんでした。戦争が近づくにつれ皇民化教育は徹底されました。「御国の為に死ぬ」「天皇陛下バンザイ」など天皇を翼賛する風潮が強められていきます。

日本は太平洋戦争始めのころは、東南アジア、太平洋の島々を占領していましたが、1942年6月のミッドウェー海戦に敗れてからは敗退を繰り返していました。

いよいよ日本本土での戦争になることが予想されて、その準備が進められました。1944年3月には沖縄守備軍(第32軍)がつくられ、兵隊たちが沖縄に集められました。学校が兵舎になり、それでも足りなくて民家も使われました。そして、飛行場や陣地が造られ、その作業に小学生からお年寄りまで徴用されました。

7月から県内外への集団疎開が始まりました。しかし、海上はすでに危険な状態になっていたことと船舶の不足で目標どおりできず、県民はやがて戦場となる県内に留まらざるを得なくなりました。疎開者のなかには1700人の児童を乗せた船が米潜水艦によって撃沈される対馬丸遭難事件(44年8月)のような悲劇も起こりました。

10月10日、沖縄全域で米軍による大空襲があり、守備軍の施設、戦力は甚大な被害を受けました。県都那覇市はほぼ全焼し、県民生活も大きな打撃を被りました。「10・10空襲」と呼ばれ今でも語り草になっています。

その後も度々空襲があり、沖縄は戦争前夜の様相になりました。
しかも、こうした状況の中で、第32軍の主力部隊(第9師団)がやがてフィリピン戦に駆り出さたため、軍首脳は、現地徴兵、防衛招集などを通じて県民の中から即席の兵力を補充するとともに、作戦も戦略持久戦に変更しました。

米軍の沖縄攻略は、まず本島南部離島の慶良間諸島を確保し、そこから本島に攻め込む計画でした。
ハワイやフィリピンから発進したアメリカの大艦隊が3月23日、24日沖縄本島海上に到着、南部を空襲しました。
県民ははじめて見る海をおおいつくすほどの巨艦の群れに呆然となったそうです。

3月26日未明、慶良間の島々に上陸し、激しい戦闘となりますが、3月29日慶良間諸島全域を支配しました。この戦闘で、日本は、兵士530名の戦死者のほか、121名の将兵と1195名以上の住民が捕虜にされました。一方、米軍の損害も、戦死31、負傷81名にのぼりました。慶良間の神山島からは本島に大砲が直接届く距離でありました(日本の大砲は届かない)。

4月1日、米軍による本島上陸が始まります。
米軍は、早朝、例のように、上陸に先立ち、猛烈な空襲を浴びせたうえ、海上からもし烈な艦砲射撃を加えた後、兵士たちを満載した無数の上陸用舟艇が進んでいきました。

ところが、ものの30分で北谷、読谷の海岸にほとんど日本軍の抵抗を受けることなく上陸してしました(無血上陸)。
上陸した米兵の中には呆気にとられるものもいたそうです(米軍従軍記者)。

その日のうちに読谷飛行場、嘉手納飛行場を占拠、直ちに「軍政布告第2号」を交付、日本政府の全ての限を停止して、じかに軍政をしいて、制空権をも握りました。
沖縄の守備隊は那覇の北隣り首里(城)地下に司令部を置いていました。

米軍は上陸2日に本島中部で日本軍を北と南に分断することに成功し、守備軍司令部のある首里(城)を目指し決戦ともいうべき約40日間の激戦が展開され、5月27日、守備軍は、首里を撤収し、本島南部摩文仁に司令部を移します。この時点で、守備軍は8割の戦力を失っていました。

南部に追い詰められてからの戦況は、無惨極まるもので軍隊といえるものでなくゲリラ戦法そのもので、敗残兵と住民が壕や茂みに入り乱れ、米軍の掃討作戦にさらされました。

6月23日未明、牛島司令官と長参謀長は壕の中でそろって自決し、司令官のいない結果となりますが、司令官は、死ぬ際も、「最後の最後まで抵抗して戦うように」旨の文を残しました。

これで、組織的戦闘は終了しますが、米軍は引きつづき掃討作戦を展開、6月末までに9000名の日本軍兵士が犠牲になり、8万名の一般住民が収容されました。「ひめゆり部隊」「鉄血勤皇隊」の学徒隊の多くもこの地で悲惨な最期を遂げました。
米軍が沖縄戦攻略の作戦終了を宣言したのは7月2日のことでした。

5月末、南部の壕の中で、最後の軍団長会議が開かれたそうで、同席した島田知事は、「軍が武器も装備も整った首里で玉砕せずして、摩文仁に下がり住民を道連れにするとは愚策である」と憤ったが、牛島司令官は「第32軍の使命は本土作戦を1日も有利にすることだ」と説いて会議を締めくくったといわれています。

まさに、「沖縄戦は沖縄の住民を守るためではなく、米軍の本土上陸に備えるための時間稼ぎ」だったことがわかります。
沖縄戦の戦没者20余万人。彼らは想像を絶する苦悩の末に二度とない人生を失ってしまい、沖縄の地に眠っています。

(たから・しょういち)

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