論文

> シリーズ先人に聴く 第1回(下)伊藤清 会員
裁判員制度の問題点
弁護士  森川  文人

裁判員制度とは?

裁判員制度広報のホームページにおいては「裁判員制度とは、刑事裁判に、国民のみなさんから選ばれた裁判員が参加する制度です。裁判員は、刑事裁判の審理に出席して証拠を見聞きし、裁判官と対等に議論して、被告人が有罪か無罪か(被告人が犯罪を行ったことにつき「合理的な疑問を残さない程度の証明」がなされたかどうか)を判断します。

「合理的な疑問」とは、みなさんの良識に基づく疑問です。良識に照らして、少しでも疑問が残るときは無罪、疑問の余地はないと確信したときは有罪と判断することになります。有罪の場合には、さらに、法律に定められた範囲内で、どのような刑罰を宣告するかを決めます。裁判員制度の対象となるのは、殺人罪、強盗致死傷罪、傷害致死罪、現住建造物等放火罪、身代金目的誘拐罪などの重大な犯罪の疑いで起訴された事件です。原則として、裁判員6名と裁判官3人が、ひとつの事件を担当します。」と説明されている。

1999年6月成立の設置法に基づき、内閣に司法制度改革審議会が設置され、陪審法でも参審法でもない「裁判員制度」が、「国民の司法参加」として意義あるものと提案され、04年6月「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」が成立した。同時に公判審理の迅速化を図るためとして公判前整理手続の新設など刑事訴訟法の改正もなされた。本年5月21日から実施される予定で、昨年11月には約29万5,000人へ裁判員候補予定者の登録通知が発送された。

しかし、実施の時期が迫れば迫るほど、知れば知るほど、国民の拒否反応が高まっている。どう考えても裁判員制度推進派である朝日新聞のアンケート結果でも(09.1.9)裁判員として刑事裁判に参加したいかどうかという問い対して、「ぜひ参加したい」5%、「できれば参加したい」が17%にとどまり、「できれば参加したくない」は50%にのぼり、「絶対参加したくない」も26%いた。
こんなに国民に望まれてない制度。なのに「司法への国民参加」とはどういうことだろう?

「司法への国民参加」とは?

多くの国民が反対するにもかかわらず、既定方針として強行に推し進めようとする裁判員制度。「司法への国民参加」にプラスイメージを持たせようとしながら、その施行過程においては、全く国民の参加を問う姿勢、すなわち国民・民衆の意見を反映させるつもりは認められない。ひたすら商業メディアを煽り、決まったものなのだから、イヤでもいいものにしようという方向に世論をまとめ上げようとしている。

やりたくなくても裁く側に廻らせられる、多数決で人を裁く、そのことに、今、国民は健全な嫌悪感を示しており、メディアでもその国民の声を無視出来ない状況になってきた。。

過料まで科されて裁判員になることを強制させられる(112条等)、これを「現代の赤紙」と呼ぶか、「国民の司法への強制動員」と呼ぶかはともかく、強制・義務という文脈がある時点で、一応、ボランタリーな形をとる選挙などと異なることは明らかであり、これをもって「国民参加」と指摘するのは、まさに徴兵制をして「国民参加の軍隊」と胸を張るのと同じことだ。国家総動員法を国家奉仕への国民参加と評価するかのごとくと言ってもいいだろう。そもそも、憲法上規定されていない刑事裁判制度であり、義務であり、その憲法違反性は顕著ではないだろうか。
いったい誰が、どんな目的で望んでいるのだろう?

裁判員制度の導入の経緯=新自由主義「司法改革」の中の裁判員制度

80年代の、レーガン、サッチャー、そして中曽根内閣の「戦後政治の総決算」政策、すなわち新自由主義政策の破綻は、今日、明らかである。日本の、行政改革、政治改革、そして「司法改革」・・・上からの一連の構造「改革」路線が民衆を幸せにする為の施策ではなく、むしろその逆であったことはいまや誰もが認めるところである。「格差社会は構造改革の副産物ではなく、構造改革の目的そのもの」(森永卓郎・08.10.27朝日新聞)と指摘されている。まさに国鉄改革=労働組合解体により総評の解散・連合の発足が目指され、政治改革=小選挙区制により社会党等反対勢力を封じ込み、そして「司法改革」である。

このような「自由」と「改革」の名の下に、強い者=「富める資本」の経済的自由を最大限に保障し、大衆を自己責任=貧困に落とし込む新自由主義社会が貫徹されようとしていた。

「司法改革」だけは、あたかも異なるかのような幻想がある。理解できないが、行政改革も政治改革もその「改革」という言葉の肯定的な響きに、欺かれたことに民衆がはっきりと気がついたのは、最近といえば最近ではある。しかし、「『この国のかたち』の再構築に関わる一連の諸改革の『最後のかなめ』として位置づけられる」(司法制度審議会01.6.13意見書)とされる「司法改革」について、その他の構造改革路線=新自由主義政策とは違うんだというのは、この点からも誤りであることは明らかである。

「司法改革」を誰が言い出したか。行政改革・政治改革と同じく政府・権力である。われわれ民衆側から言い出した「下からの改革」ではなく、「上からの改革」である。「司法改革」だけ別のわけがないのである。

裁判員制度の導入の目的、そして、裁判員制度の問題点
裁判への民意(良識)の反映と信頼の向上?

国民の常識(良識)が、刑事裁判に反映される、そのこと自体が、非常識で閉鎖的な裁判官の判断による誤判を防ぐ、という点が裁判員制度導入の主たる触れ込みと思われる。

それについては、上記に記載したとおり、強制動員が国民参加か、という根本的な疑問があることに加え、以下のような問題点がある。

そもそも、職業裁判官の判断に問題があるとした場合、これらの裁判官は氏名を明らかにして裁判を行う以上、そこに明確な責任が生じる。しかしながら、裁判員候補者となったことを公表してはならず、また、加わった裁判の評議は話してはならず、それは、一生話してはならない以上、裁判員は個別に裁判の責任を問われることはない。結局、裁判員制度が実施されれば、裁判員に動員される国民総体が裁判の責任をいわば国民の自己責任として負わされることになる。

そして、そもそも国民の常識・良識は、果たして人を裁くことに発揮出来るのだろうか。仮に、民事事件、すなわち商売や経営、契約などであれば、そこにある実際の商慣習等に長けている国民がおり、それが民事裁判で発揮される場合はあり得るかもしれない。

しかし、裁判員制度は刑事裁判である。なぜ、刑事裁判、それも死刑又は無期の懲役もしくは禁固にあたる罪(殺人、強盗致死傷、現住建造物放火、強制わいせつ致死傷、強姦致死傷、身代金目的誘拐・・・)、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪(傷害致死、監禁致死、危険運転致死・・・)など重大事件に限られるのか。他人を裁く「常識」を持っている国民などいるのだろうか。それを前提とした事実判断の世間ルールなど存在するのか。 甚だ疑問であると言わざるを得ない。

裁判の迅速化、調書裁判の改善?

既に「公判前整理手続」は実施されている。これにより事件の争点をあらかじめまとめておき、迅速な公判が期待できるとされる。しかし、そもそも、裁判員制度だから迅速化、という議論は論理的ではない。裁判員制度が導入されなくても、適正な速度で審理がなされるべきは当然だ。裁判員に迷惑がかけられないから、などというのは既に、制度導入の目的自体がおかしい。

そもそも、刑事裁判が遅すぎる、という事案を5事案挙げられる人はいるだろうか。そして、その「遅すぎる」という根拠、弊害はなにか。通常、もっとも利害を持つのは被告人自身、それも身柄拘束されている未決拘留中の被告人である。その被告人が遅すぎるというのはわかる。早く無実、場合によっては有罪でも早く判決を受けてしまいたいという動機は理解出来る。しかしながら、多くの被告人は裁判の早さよりも、裁判をきちんと適切に行って欲しい、正しく判断してほしい、と願っている。

しかし、裁判員裁判では、公判に提出される証拠は公判前整理手続において重要な証拠にしぼられる。現在の刑事裁判の問題点は、検察べったりで有罪推定の心証をもつ裁判官により著しく偏った判断がなされている点にあることは否定しないが、公判前整理において「重要な」証拠の選別を行うのは、「有罪推定」の裁判官であり、しかも裁判官は内容を見ないで書証の採否を行う。結局公判前整理手続は、裁判官にとって、より自分の(有罪推定の)ストーリーに沿って「迅速に」訴訟を進行させやすくするものであり、弁護人は「有罪推定」の裁判官に武器を取り上げられるに等しい。

そして弁護人の主張立証の内容は予め検察官に示さなくてはならないから(弾劾立証を予め示すことになる)、検察官に準備され、検察側証人の証言の矛盾を効果的に示すこともできないし、また、証人尋問の時間も厳しく制限されているから、周辺事情からじわじわと迫って証言をひっくり返すこともできず、公判で弁護人ができることは限られている。公判前の密室で争点が切り縮められることは弁護人の立場から防御権の侵害と言わざるを得ない。

自白調書に偏重した現在の刑事裁判も裁判員制度の下、公判中心主義になれば、自ずと改善せざるをえないだろうということも言われる。しかし、この点も、調書裁判の問題はそれ独自の問題であり、裁判員制度導入と理論的に関係ない。とにかく、裁判員の負担を減らす、という「名目」になるだけでしかない。

それぞれの生活を犠牲にして強制参加させられる国民は、自分たちの判断が人の一生を左右すると考えて一生懸命判断するかもしれない。しかし裁判官の偏見を通じて選別された書証や、多くの人にとって人生で初めて見る証人尋問での証言を聞いて尋問調書も読まず、じっくり考える暇も与えられず、裁判官の巧みな誘導にあえば、結論は自ずから明らかである。

そもそも被告人の為でない制度として発足

01年6月12日の司法制度改革審議会の意見書では裁判員制度につき「新たな参加制度は、個々の被告人のためというよりは、国民一般にとって、あるいは裁判制度として重要な意義を有するが故に導入するものである以上、訴訟の一方当事者である被告人が、裁判員の参加した裁判体による裁判を受けることを辞退して裁判官のみによる裁判を選択することは、認めないこととすべきである。」と述べられている。

裁判員制度の最大の問題点、それは被告人の防御権を無視していることである。ときには被告人を殺す判断を行う刑事裁判手続において、最大の利害関係人はいうまでもなく被告人であり、被告人の防御権は徹底的に保障されなければならず、これは憲法上の要請である。ところが、裁判員制度は、裁判員の負担を考慮して被告人の防御権を著しく後退させている。死刑を含む判断を無理矢理求められる精神的苦痛など、裁判員の負担も相当に大きいが、刑事手続にさらされている被告人の人権侵害の危険とは比べものにならない。被告人の防御権を無視するということは、人の人生や命を著しく軽視しているということである。

原則的な刑事弁護を破壊

東京地裁の刑事事件では、「裁判員制度に向けて」と称して、従来にもまして迅速化が叫ばれ、審理の省略化が目立つようになってきた。これまでは、証拠採用にあたって関連性の厳格な立証を要していたはずのところ、社会常識上関連性が明らかとばかりに、関連性立証を省略するような事態も起こっている。本来裁判員制度に供される証拠であれば、その採用にあたっては証拠法則がより厳格に適用されて絞られなければならないところ、全くの逆用、悪用がまかり通っているのである。

直接主義・口頭主義の強調ということに関しても同じ問題がある。調書の偏重を避け法廷での証言の重視といいながら、そこでねらわれているのは、「厳格な立証」の緩和であり、簡略な立証での有罪獲得でしかない。

ここに裁判員制度導入を強力に推進する法務省・最高裁のねらいがはっきりと示されているのである。現行刑訴法のもとで、刑事弁護の苦闘によってじりじりと勝ち取ってきた厳格な刑事手続の地平を、一挙に覆し、簡易・軟弱な手続で有罪に持ち込む手続に変えようということである。

推進派の欺瞞

裁判員制度推進派は「現在の刑事裁判は絶望的であり、これ以上悪くなりようがない。裁判員制度のほうが、まだ期待できる。」などと言う。しかし、これ以上悪くなりようがないからどんな制度でもマシ、などという主張は暴論である。
その主張には思考を停止した深いあきらめが根底にあるとともに、根拠のない楽観も存在する。

結局裁判員裁判は、密室裁判=公判前整理を経た、いわば「予め決められたシナリオに沿って進められる裁判ショー」である。でなければ控訴審まで徹底的に裁判員裁判にするはずだ。裁判官に対する不信を言いながら、裁判官の強権的な訴訟指揮のもと行われる裁判員制度ショーにそれほどまでに楽観的でいられない。
証拠開示の範囲が広がったなどと喧伝されるが、検察が致命的な書証を正直に出すことの制度的な担保は何もない。

重大事件を対象とする裁判員裁判はまさに被告人の人生がかかっている。結果次第では何十年も刑務所で暮らし、あるいは殺される立場にいる被告人が、数日仕事を休まなければならない裁判員の都合(実際は裁判所の都合)で十分な防御をする手段も時間も制限される。被告人は切れば血の流れる一人の人間である。その認識がこの制度にはない。

刑事裁判の民営導入による国民の自己責任化

何故、ここまで強制動員しなければならないのか。そもそも「司法への国民参加」により何が解決するか、すなわち現状の刑事司法の問題点がどのように解決するか、といった議論はほとんどされていない。司法に国民が参加することがいいのだ、という無前提の議論である。あたかも、郵政の民営化は、それ自体素晴らしいのだ、ということのように。

むき出しの資本主義といえる新自由主義は、「民営化(正確には「私企業化」)」により多くの国民をして自己責任へ落とし込もうという方策を採っている。新自由主義の「自由」は、ビジネス・商売の自由、もっといえば、資本・企業にとっての(その意味での民間・私人の)商取引の自由であり、自由な競争の結果、敗者となるリスク付の自由である。競争に負けるのは自分の実力がないから自分のせい、すなわち自己責任である、という組立となる。

裁判員制度においては、国民が自ら裁く側になるのだから、どのような判断を下そうとそれは国民のせい、国民の自己責任という組立になるだろう。裁く者(国民)= 裁かれる者(国民)という図式である。「そうだ、それの何が問題なのだ、自分で自分のことを決めるのは民主主義の基本ではないか」との主張が推進論者からあり、また多くのメディアはそれにノーとは言えない。

しかし、そこには明らかなごまかしがある。誰も(国民は)そんなことを自ら求めていないのである。すなわち押しつけられた国民参加に、民主主義的契機はない、それはどこまでいっても国民動員でしかない、ということである。「現在の専門的裁判官による裁判には問題がある」→「故に裁判員制度で現在の裁判の問題が解消する。」とは論理的に結びつかない。結局は、「現在の専門的裁判官による裁判には問題がある」→「故に国民参加の裁判員制度が導入されれば、裁判の問題点は、国民の自己責任として負うことにならざるをえない」ということである。

裁判員制度推進の真の意図 ー 治安強化のバックボーン

私たち民衆が自ら欲して望んでいるのは裁判員制度ではない。裁判を行うのであれば、正しい判断をしろ、ということである。責任を我々に押しつけて欲しいわけではない。そもそも、お上(政府・最高裁・日弁連)が国民の為になるなどと言うときは疑うべきである、むしろ、それが民主主義のスタンスだろう。

誰が何のために、司法改革の一環として裁判員制度を導入したいのか。我々を取り巻く世界の状況、それはサブプライムローン破綻を端緒とした金融恐慌、食糧難、インフレ、そして世界各地で押さえきれないストライキ等の抵抗の始まりの時代である。体制側として、この事態において対外的には軍事態勢を、体内的には治安維持強化を図る、すなわち戦時体制を構築しなければならない。

国民をして国民を裁く、国民にお上意識を注入し隣人を監視するがごとく相互に裁くことを習慣とさせる裁判員制度は、国民間の相互不信と監視社会を強固なものとするバックボーンとなり得る。刑事裁判は、国家権力が被告人(民衆)を裁く権力的な行為である。その権力側に国民を組み入れ責任を取らせるだけの裁判員制度は、その国民の為でも、被告人の為の制度でもない。国家権力が自ら「責任」は限定させつつ、相互不信による治安強化を図る国家権力の為の制度なのである。
(もりかわ・ふみと)

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