論文

あるべき税制と税制改革の論点
東京会井上徹二(埼玉学園大学経営学部教授)

はじめに

税制改革の論議が重要な政治課題として注目されている。しかも消費税率の引き上げへの地ならしとしての論調が目立つ。税制を改革すべきであるという点では異論がない。しかし、税の役割の根本をないがしろにしたままの増税と不公平を拡大するような改悪を許すわけにはいかない。

そこで、近代税制の基本的役割を考察することが重要と考え、先に、「近代税制の基本的役割を問う」という論稿を呈したが、さらに具体的な税制改革の論点の一部を明らかにしたい。現在の時点の税制改革をめぐる争点の第一は消費税の増税を許すか否かであると考えるのであるが、この点については他の論者に譲り、本稿は、所得税制について絞って考察する。

1. 税制の基本設計

(1)税の源泉としての所得と応能負担
税制の役割がすべての国民の幸福の保障にあるという観点から、あるべき税制の姿を考えることが必要である。原理的に考えれば、税の源泉は毎年発生する所得(資産の増加)と、過去の所得の残余である資産の2つしかないのは明らかである。結局は、課税源泉は所得そのものである。しかし、人間は生活し、所得を生み出す活動をしなればならない。したがって、所得から生活と勤労のための消費を差し引いたものが課税対象となりうる。マクロ的、国民全体としてみた場合には、課税対象は所得しかなく、さらに課税可能額は所得から生活費・勤労費を差引いた額でしかない。

同時に、すべての人の幸福を保障することが近代国家の理念であることを考えれば、各人がどれだけの税を負担すべきか、負担できるかが明らかになる。わが国の憲法は、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定し、最低限の生活費には課税しない、最低限の生活ができない人には国がそれを保障することを原理的に明確にしている。

この憲法の規定をさらに敷衍すれば、税の財源は生活費を上回る所得のある人が負担できるし、負担すべきであること、社会と国家、国民の存在と有形無形の援助があって所得が生み出されていることから、結果として多くの所得の獲得をした人がその一部を社会、他の仲間・国民に還元・提供することが必然であり、そのことなしに社会国家は存続し得ないはずである。
(2)所得格差と税の負担
国民所得と税との関連、所得格差の存在と税制のあり方を考察していきたい。税収は国税地方税の合計とし、以下のような関係を前提にして、数値的に検証する。

国民所得=1人当たり生計費×人口+資産増加=基礎消費+余剰消費+資産増加

国民所得が全体として1000、基礎消費が各人250、3人であれば合計750となる。下記のように個人所得に格差があると、所得の多いAは、基礎消費、余剰消費をした上で、資産増加が可能となる。平均所得のBは、所得で基礎消費をまかなえる。低所得者のBは所得では基礎消費がまかなえず、資産が150マイナスとなり、過去の累積資産がなければ借入れするしかない。

国民所得 1000 基礎生計費 750 余剰生計費 250 資産増加 0(A 150B 150)
個人 基礎消費 余剰消費 資産増加
A 650 250 250 150
B 250 250 0 0
C 100 250 0 −150
合計 1000 750 250 0

Cは生活できず、このような社会は永続できない。解決策は、余裕のある個人AがCに対し所得を150だけ移転すれば良い。Aは150の所得移転するために、余剰消費を削減するか、資産増加を諦めれば良く、移転後もなお他の人よりリッチであり続ける。

所得税 基礎消費 余剰消費 資産増加
A 650 −150 0 500 250 100 150
B 250 0 0 250 250 0 0
C 100 0 150 250 250 0 0
合計 1000 −150 150 1000 750 100 150

この所得移転を国家が媒介する仕組みが税制であり、税の所得再配分機能といわれるものである。この所得税制の根底にあるのは、すべての人が、すべての国民の幸福の願いを尊重し、能力のある人が税を負担し、所得の低い人への所得移転を認めるという近代国家の基本思想である。

ところで所得のみが税の源泉でありえるという原則に立つならば、「税制は所得課税を基本に設計すべき」ことは自明である。歴史的に見ると、近代国家の成立の先導役を果たしたイギリスが1799年に所得税制を立法化し、アメリカでは1913年に所得税を連邦税として導入した。

わが国では1887(明治20)年に所得税法を創設し、徐々にその重要性を高め、戦後はシャウプ税制勧告を受け、所得税中心の税制を確立してきた。しかし、所得税の応能負担原則が少しずつ形骸化されてきた。消費税の創設により、負担能力に関係なくすべての人に一律に、生活費にも課税し、所得税の重要性を否定する動きが顕著である。

2. 法人税と所得税の統合論

わが国の現状は、税制の基本となるべき所得課税において、個人所得課税と法人所得課税を別個に扱い、法律上も「所得税」と「法人税」とに区分され、立法化されている。この点に関して、異論を唱える論者は寡聞にして少ない。筆者はこの点につき問題点の所在とその在り方を提起してきたが、本稿においても、税制上の基本問題として考察する。

筆者の主張は、所得税と法人税を統合し、法律上も「個人所得課税と法人所得課税を一体として、課税所得の算定等の規定をすべきである」ということである。

問題の焦点は、現行法は、課税標準である「所得の定義と計算」に大きな相違と差別があり、両者の規定を基本的に一致させるべきである、ということに尽きる。

法人税は「益金」から「損金」を控除して所得を計算する。個人所得税は「総収入金額」から「必要経費」を控除して所得を計算する。両者の所得計算は表現の違いだけで、本質的な相違はないかのごとくであるが、そうではない。両者の違いの眼目は、損金・損費・経費の「必要性」概念の有無にある。

法人税の損金には「必要性」は要求されていないが、所得税の経費には「必要性」が条件とされている。もちろん、この「必要性」とは収入を得るために必要なものであるか否かということである。法人税の所得計算において、損金について「必要性」という制約条件を規定していないことの異常性と問題点について明らかにするため、以下詳細に検討していきたい。

同じ経費としての支出が、所得税においては収入金額を得るために必要であるかどうかという条件でふるいにかけられるにもかかわらず、法人税上はそうしたふるいをパスすることが出来る。損金の額が必要経費の金額より大きくなる。損金の範囲が必要経費の範囲より大きくなり法人に有利な結果となるのである。所得概念は同一であるべきで、個人企業と法人企業の所得計算の方法を基本的に同じにすることが、税制の中立性に合致する。

わが国において、個人企業が税制上の理由から法人形態を選択することにより多数の法人が生まれ、その結果さまざまな副作用が生じている。

日本でも歴史的に見れば、現在のアメリカやイギリスと同様、所得税法の中に法人税の計算規定が組み込まれていた。すなわち、所得税法で法人所得を第一種所得として課税することになっていた時期があったのである。昭和15年の税制改正により法人税という固有の租税が設けられ今日にいたっている。

アメリカには所得税法とか法人税法という個別法は存在しない。個人及び法人の所得に対する課税は、内国歳入法の中で規定されている。内国歳入法63条において、「課税所得とは総収入から控除額を差し引いた金額をいう」と定義する。この規定は法人と個人に共通に適用される。その上で、個人と法人に共通に適用される控除項目を161条から196条に規定し、個人のみに適用される控除項目は212条から220条に、法人のみに適用される控除項目は241条から248条に規定するという構成をとっている。

内国歳入法162条において、必要経費の一般定義を「営業又は事業を行うために、課税年度に支払われ又は発生したもので,通常かつ必要な費用(all the ordinary and necessary expenses)が控除額として認められる」と規定している。この規定は個人であれ、法人であれ、営業.・事業に関連する支出に適用されるのである。

このような所得税制と法人税制の基本的統合を行うことにより、たとえば、所得税において個人の事業所得と法人課税を企業課税として基本的に同一に規定することにより、たとえば、「いわゆる家族従事者に対する給与を必要経費として認めない扱い」、「夫婦がそれぞれ独立して事業を行っている場合(弁護士と税理士など)の所得の帰属をめぐる不合理な扱い」などを解決することが可能になるであろう。これらの詳細な検討は改めて行いたい。
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