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時潮

時潮
ファシズムと民主と自由

制度部長 田口 智弘
ファシズムとは何か?『全体主義の起源』でハンナ・アーレントは、ナチズムとスターリニズムにおける全体主義の形成を徹底的に分析した。そこで述べられているのはこういうことである。国民国家と階級社会の崩壊によりアトム化し根無し草となった大衆が全体主義的支配を準備したと。そして、さらにこう述べる。「根源的な悪が、そのなかではすべての人間がひとしなみに無用になるような一つのシステムとの関係においてあらわれて来るということだけはわれわれも確認しえるのだ。(中略)全体主義の発明したさまざまの制度の恐るべき危険は、急速に人口が増加し、同時にまた土地を失い故国を失った人々も着実に殖えて行くこの時代においては、いたるところでいつも無数の人間が、功利主義的に考えるかぎり実際に<無用>になりつつあるということにある。」

現在、資本主義の行詰まりに対する打開策が先進国において企図されている。そして、それらの多くがナショナリズム的傾向をみせていることは言をまたないであろう。じじつイギリスにおけるEU離脱、アメリカ合衆国のトランプ政権における保護主義的な姿勢、決選投票において敗れたとはいえフランスのマリーヌ・ルペン率いる極右政党の躍進、日本の安倍政権が進める強力な権力の集中と国家統制への志向はそれらの傾向を如実にあらわしている。

ただ、ローマは一日にしてならず。これらの世界的傾向は一朝一夕に生じてきたものではない。資本主義の発展段階である産業資本主義は循環的な危機に見舞われる。それが恐慌による景気停滞である。そして、各国民国家(ネーション=ステート)は不況と失業による社会不安に対応しようとする。すなわち、国家資本主義の強化である。1930 年代に行われた保護主義、共産主義、ファシズムなどは、それぞれの国家政策は違えども経済社会を強力な国家統制のもとにおくということに関しては共通している。そして、それらの社会・経済政策を支持するのが、アーレントのいうところのバラバラにアトム化され孤立し見捨てられたと感じている大衆なのである。

われわれは再びこのような分断的世界に生きている。1970 年代以降に主流となった新自由主義的経済政策は、それまでの方法では資本を増殖することが困難となった現代資本主義の危機打開策であったのだが、現在、とうてい許容することができないほどの世界的経済格差を生んでいる。そして、その新自由主義的経済政策を進めてきたのが先進国の為政者である限り、アトム化され孤立した大衆の支持は得られないであろう。結果、その間隙をぬって現れるのが排外的で攻撃的な言動で喝采をあびる専制者なのだ。

これは民主主義の敗北であろうか。否、これも民主主義の一面なのである。すなわち、これが多数者の専制というもの、全体主義とよばれるものなのだ。よく言われることだが、アドルフ・ヒトラーはクーデターや革命によってナチス政権を成立させたのではない。当時、世界で最も民主主義的といわれていたワイマール憲法によって権力を合法的に獲得したのである。そして、そこで犠牲にされるのがリベラリズム的価値観すなわち自由と寛容さであることはいうまでもない。

安倍第二次政権が権力を獲得した後に行っている政策も、この世界的文脈の中で考えればよい。日本では、従来の農村共同体が崩壊し都市住民となった個人を包摂していたのが会社であり各種中間団体であった。しかし、資本の利潤率が悪化することによって会社は個人を包摂することをやめ、代替可能な労働力商品として扱うようになった。また、資本獲得の妨げとなる労働組合や各種中間団体を無力化した結果、個人も無力化しアトム化した大衆となったのである。安保法制、特定秘密保護法、いわゆる共謀罪、そして憲法改正、これらは資本主義の危機に対する安倍内閣の回答である。それは、国家権力の統制強化とアトム化した大衆の統合である。その結果、個人の尊厳と自由と寛容は衰退する。

(たぐち・ともひろ:神戸会)

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