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時潮

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憲法改正論議に関する試論

制度部長田口 智弘
ヘーゲルはその著書『歴史哲学講義』で、世界史を自由の発展過程として描き出している。すなわち、彼のいう歴史哲学とは歴史に実現されてゆく理念の発展過程を、自由の意識としてあらわれるほかない自由の理念の発展過程を、認識することである。

一方、カントは自由の権能についてこう述べている。「自由とは、それによって他人に不法を行わない行為の可能性である」と。そして、さらにこう述べている。「私の法的自由は、(中略)私が同意することができた外的法則のみにしたがい、それ以外の外的法則にはしたがわない、という権能である。同じように、国家における法的平等は、ひとはそれによって相互に同じ仕方で束縛されることができる法に、自分も同時にしたがわなければ、だれであれ他人をそうした法の下に法的に束縛することはできない、といった国民相互の関係である。」

さて、日本国憲法第九条はカント的理念の発現形態である。それは第二次世界大戦という未曾有の戦争の歴史的教訓の結果として生まれることになった。すなわち、諸国家間の永続的敵対関係・戦争状態を終結させるためには、各国家がそれぞれの個別的交戦権を放棄し、その放棄した交戦権を上部機関である自由な連合制度に委ねなければならない。カントは『永遠平和のために』において次のように述べている。

「たがいに関係しあう諸国家にとって、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには、理性によるかぎり次の方策しかない。すなわち、国家も個々の人間と同じように、その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの(もっともたえず増大しつつある)諸民族合一国家を形成して、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。」

しかし、カントがいうところの諸民族合一国家は日本国憲法がつくられた時点では存在していないし、もちろん今でも存在しない。あえていえば、国際連合という組織はあるが、きわめて無力なものでしかない。また、諸国家における交戦権の放棄も実現していない。ではなぜ第九条のような条文が生まれたのか。

矢部宏治によれば、国連憲章の原案(ダンバートン・オークス提案)には一般の国連加盟国の交戦権を認めておらず、五大国(安保理常任理事国)だけが国連軍という形で兵力を集めて戦争を行う法的独占権をもつといったものだった。ただし、この原案はおりからの冷戦によりなんらの成果をあげることなく、それにより国連の理念も実態を失ってしまった。しかし、日本国憲法第九条が執筆された時点ではこの国連憲章の原案がまだ生きており、それによる国連の崇高な理念も生きていたのである。つまり、日本国憲法第九条は生まれた直後にその存在の前提をなくしたものであったのだ。それにもかかわらず第九条は70 年間変えられることはなかった。

現在おこなわれている憲法改正に関する議論では「改憲論」と「護憲論」が主だったものである。
政界においては、「改憲論」を主に自由民主党が、「護憲論」を民進党や共産党などの野党が代表しているといえよう。自由民主党の憲法改正草案については、天皇の元首化や基本的人権の権利縮小、国旗国歌の尊重義務、緊急事態条項などの国家主義的傾向があきらかであり、その意味においても立憲主義のなんたるかをわきまえない反時代的姿勢はいかんともしがたいものがある。

ただし、憲法改正の本丸はいうまでもなく第九条にある。自衛隊が国外において武力行使をすることができるようになること。つまり、集団的自衛権行使を憲法条文とし、それによって、アメリカとの同盟関係が強化され、日本の安全は保障される。そう改憲派の人々は考えているのであろう。しかし、この現実主義的にみえる政策は、逆に日本の安全に危機をもたらす可能性が大きい。日本及び日本人は憲法九条によって護られてきたのである。なぜなら、憲法九条を盾にアメリカからの戦争への派兵要請を拒否することができたからである。そして、その限りにおいて、日本の国家主権もかろうじて発現できたのである。

他方、「護憲論」に関していえば、憲法の条文を死守すればそれで良いと考えているところがないだろうか?このままでは仮に憲法九条が残ったとしても、その精神は骨抜きになる可能性が大きい。つまり、戦後70 年間きわどいバランスでかろうじて平衡をたもってきた憲法九条だが、現在、そのバランスは崩れてしまったように思える。では、どうするのか?理念的には、憲法九条を強化することである。その場合、二つの考えがある。矢部宏治=加藤典洋と柄谷行人の二案である。

簡単にいうと、前者は憲法を改正する。そして、憲法九条は集団的自衛権を行使できないような条文に書き換えるという案。これは自衛隊の存在を認めるが、従うのは米軍ではなく国際法の原則=国連中心主義である。一方、後者は憲法を改正しない。現実を変えるという案である。つまり、憲法九条を言葉そのままのかたちで実行する。であるから、武力を完全に放棄する。それによって、日本は攻撃を受けるであろうか?攻撃国が国際的非難をあびるのは目に見えているのに。逆に日本の武力放棄(国際社会に対する純粋贈与)こそが「革命」であり、この革命=理念にならう諸国家があらわれるであろうと柄谷は述べる。

どちらの案も、現状では実現化はまず見込めまい。ただし、それを理念として議論しないこととは別である。そして、ヘーゲルの自由の理念も、カントの永遠平和の理念もべつに人類の善意=倫理として生じてきたわけではないのである。それは、前者では世界史的人物の個人的野心・征服欲により実現し(理性の狡知)、後者では人類の非社交的社交性、つまり戦争により漸進的に実現化してきたのである(自然の狡知)。多大な犠牲を払いながら。

(たぐち・ともひろ:神戸会)

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