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時潮

時潮
現代における理念について

制度部長 田口 智弘
柄谷行人はイマニュエル・カントの思想について、理念には2種類があり、カントはそれを「構成的理念」と「統制的理念」に区別したと述べている。柄谷によれば、「構成的理念」とは、理性に基づいて社会を暴力的に作り変える場合を意味し、「統制的理念」とは無限に遠いものであろうとも人がそれに徐々に近づいていく場合を意味する。私はこの区別が重要であると考える。なぜなら、一般的に人が考える理念とは「構成的理念」をいっている場合がほとんどであり、そして、「構成的理念」に挫折した人は理念を理想主義だと嘲笑することがほとんどだからである。このシニシズムは、現状肯定主義に陥るしかなく、政治的アパシーに帰結するしかない。


ここでは現実的ではない(この世に存在しない)し、そういう意味で仮象である「統制的理念」についてかんがえてみたい。この「統制的理念」は仮象ではあるが、人が人である限り決して理性で解消することができない仮象なのである。

ウィンストン・チャーチルが民主主義について言った言葉は、現在では資本主義に置き換えて語ることができるのではないだろうか。すなわち、「資本主義は最悪の経済形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。」この言葉で、私が言いたいことは二つある。資本の論理がグローバルに地球上を覆っているということ。にもかかわらず、人々は、資本主義に対抗すべき理念を持っていないことである。

まず、資本の論理とは何か?それは、資本の自己増殖運動である。すなわち、資本主義とは、資本を投下し、そのうえで投下資本以上の資本を回収するメカニズムをいう。これがマルクス言うところのM - C - M´(M + M)である。ゆえに、剰余価値を生まない資本はこの世界で存続することができない。かくして、利潤を得られない企業は淘汰されるし、利潤を得られない経営者は馘首される。これが資本の論理だ。


では、この資本の論理がグローバルに地球上を覆うということはどういうことか?それは、資本の自己増殖運動に対抗するような運動は必ず国家や大資本の抵抗にあうということを意味する。そもそも、資本主義がここまで世界システムとして継続してきた理由は、それによって物質的・文化的な豊かさを享受できたからである。そして、自由な商品交換を原則とする市場経済だけが人々を支配する根拠となってきた。なぜ、資本主義によって物質的・文化的な豊かさを享受できたか?産業資本主義は絶え間のないイノベーションを宿命付けられているからである。絶え間のないイノベーションにより、商品の価値体系を時間的に差異化すること、それによって、剰余価値を得ること。

ただし、産業資本は、べつに世界を文明化し豊かにしようと意図しているわけではない。イノベーションをしない産業資本は、競争に敗れ淘汰される運命になるからそうするのである。したがって、べつにしなくてもいいようなイノベーションや、逆に無益なイノベーション、人間にとって有害になるようなイノベーションも資本が存続するために行われる。そして、資本の自己増殖運動に対抗する運動は国家や大資本の妨害に合う。反原発運動しかり、格差問題しかり、さらに、いま問題となっている憲法9条改憲も、そして税制の問題もすべてもとをただせば資本主義の矛盾に還元されるのである。そして、今後この資本主義の矛盾はますます増大し、ますますその危機の度合いを膨張させていくであろう。


ただし、このような状況に対抗する理念を持てていないのは、なにも今に始まったことではない。現在の資本主義の状況は、歴史的には、1990年代より全面化してきたが、先進国ではそれ以前より顕在化していた。すなわち、「社会主義」に対する危機感により、先進資本主義国は福祉国家の形態を採用した。それにより、たんに失業がないという理由では「社会主義」に対する魅力がなくなってくる。その後、社会主義圏が崩壊すると、福祉国家を志向する動機もなくなる。よって、結果として資本の論理以外の論理がなくなってしまった。資本が利潤を得るためには、自国の雇用などいっていられない、賃金の高い労働者はいらない、経済成長をするためにはまず資本の利潤をあげることが第一であるという議論が大勢を占めるようになったのである。現在、この資本の論理に反対する運動は、宗教的原理主義や排外的ナショナリズムとしてあらわれているが、それらが普遍的な理念を持つとはだれも考えないであろう。


水野和夫は現在の資本主義の状況を、フランスの歴史学者フェルナンド・ブローデルが述べる近代世界への転換点であった「長い16世紀」になぞらえて「長い21世紀」と規定している。つまり、現在は歴史の峠の時代であり、利潤率の低下をもって資本主義は崩壊すると論じている。なぜなら、資本の自己増殖運動である資本主義が、利潤を得られなくなれば、それは資本主義ではないから。しかし、私が思うに、資本主義は老衰するようには死なないであろう。資本は死に物狂いで利潤を求めるに決まっているからである。資本は利潤を得るためには、自国の国民を犠牲にすることも辞さないだろうし、究極的には戦争さえ躊躇することはないであろう。じじつ、1870年代以降の西欧世界の資本主義的停滞は、帝国主義による植民地獲得競争となり、その後の二度にわたる世界大戦を引き起こしたのである。


私は最初、この文章を、税制による再分配についてのものにしようと思っていたのである。しかし、そうしなかった。なぜなら、税制による再分配はこの現状に対抗する根本的な解決にはならないからである。結論的に言えば、近代国家とは官僚制と常備軍及びそれらを支える課税である。税制的な再分配はないよりはあった方が良い。ただし、国家権力を強大化しない限りにおいて。そういった意味において、トマ・ピケティの『21世紀の資本』における政策提言にも私は懐疑的にならざるを得ない。すなわち、ピケティが提唱する累進資本税は、国家権力を強大化することになるであろうからである。そして、強大化した国家権力が、本来志向したはずの「平等」を獲得しないことは、かつてや今の社会主義国家をかんがえればわかることである。


では、私たちはどうすべきなのか?一つ言えることは、自由な商品交換を主軸とする市場経済は維持しながらも、資本とそれの随伴者である国家の暴走を止めること。資本の自己増殖運動を制御すること。現在のような莫大な格差や貧困が生まれないような市場経済体制が実現されること。真の意味で自由の相互性ができること。それが、「交換的正義」であり、私たちの「統制的理念」である。そのためには、格差と自然破壊と戦争に対抗する普遍的理念が必要だ。

(たぐち・ともひろ:神戸会)

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