論文

改憲への道を暴走する安倍政権 - 戦後70年の節目にあたって -
畑田 重夫
1いわゆる「節目論」について

今年(2015年)は戦後・被爆70年という節目の年である。およそ個人であれ、団体(組織)であれ、節目にあたっては、必ず一定の意思(WILL)というものが働くのが常である。

幼い子どもであっても、小学校や中学校での学期の節目、たとえば一学期の終りと二学期のはじめにさいして、「今学期は怠けすぎた。新学期からは心をいれかえて真面目に勉強しよう」などと決意を固めるということが往々にしてあるものである。政党をふくむ諸団体でも、結党ないし創立○○周年という節目にさいしては、「○○年史」という同組織の歴史をまとめた記念の刊行物を編集したり、年表を作製したり、記念の講演会やレセプションを開催したりして、次の新しい段階への決意を固め合うものなのである。

国際政治史について考察しても、それは同じことである。世界史的に注目されている名演説というのも、すべて歴史的節目のときにおこなわれている。

たとえば、アメリカのキング牧師の「私には夢がある」という名演説も、実は、「奴隷解放宣言」100周年という節目の年にあたる1963年の8月28日、公民権の確立を求めた首都ワシントンでの25万人の大行進のさいにおこなわれたのである。その要旨は、「私の幼い4人の子どもたちが皮膚の色によってではなく、その人格によって判断される日がいつか訪れる」という夢をもっているというものであった。

第2次世界大戦後では、西ドイツの大統領(当時)ワイツゼッカーの「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目になる」という名演説があるが、これも実は第2次世界大戦終結40周年という節目の年にあたる1985年におこなわれたのであった。ワイツゼッカーは、その演説のなかで、21世紀の今日現在のわれわれにとっても極めて教訓的なつぎのようなことも述べていることを想起しておきたい。

「ヒトラーは常に偏見と敵意、憎悪をかき立てるように努めていた。若い人たちにお願いしたい。他人への敵意や憎悪に駆り立てられてはならない。対立ではなく、お互いに手をとり合って生きていくことを学んでほしい。自由を重んじよう。平和のために力をつくそう。正義を自らの支えとしよう」

安倍首相が、「地球儀を俯瞰する外交」を唱えつつ、中国の故事にある「遠交近攻」さながら世界の50ヵ国を超える国々を訪問しながら、第2次安倍政権発足後、まだ一度も、もっとも近い中国や韓国を訪問していないという現状は、まさにワイツゼッカーがさとしているように敵意や憎悪の連鎖になりかねない危険性をはらんでいるといわなければならない。

いま、わが国では、いわゆる「70年安倍談話」が大きな注目を集めている。
この「安倍談話」との関係で必ず問題となって論じられるのが、戦後50年の節目のときに出された「村山談話」である。さらには同60年という節目にさいしての「小泉談話」である。

「村山談話」とは、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。(中略)この歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持を表明いたします」(1995年8月15日)というものである。

この「村山談話」の精神と趣旨はほぼ同じものとして戦後60年の「小泉談話」(2005年8月)にもひきつがれた。それのみならず、小泉首相は、それに先立つ2005年のアジア・アフリカ首脳会議(バンドン会議)の50周年記念集会にも参加して、前記の「村山談話」とほぼ同じ内容の演説をおこなっている。つまり、「村山談話」や「小泉談話」の精ずいは、歴代日本政府の外交の基本姿勢として国際的にも認知され、それが日本にたいする信頼の根拠ともなってきた。

ところが、戦後70年の「安倍談話」となると、国内外で異状な注目と話題を集めているのが現状なのである。なぜなのであろうか。それこそまさに安倍首相の歴史認識、つまりは「日本国憲法」観の特異性に基因するものといわざるをえないのである。
2いわゆる「原点論」について

筆者は、前述のように独特の「節目論」にこだわりをもつのであるが、さらにいま一つ、「原点論」へのこだわりをもいだくのであって、そこであらためて注目したいのが「日本国憲法」の原点的見方である。「折にふれて原点にたち返れ」という一般的な教訓があるが、こと日本国憲法にかんしては、特に日本の歴史、とりわけ近・現代史との関連でその性格=原理・原則を重視すると同時に、たえずその原点に照らしながら目下動きつつある超現代史に対処すべきであるということである。

日本は、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦、満州事変、日中戦争、アジア太平洋戦争というように19世紀の末以来ほぼ10年毎に戦争をくりかえしてきた。特にアジア・太平洋戦争では人類史上初めて核兵器が使用され、広島、長崎の原子爆弾投下という被爆体験をもっている。戦争が絶えなかったということは必ず加害と被害の両面から考察をする必要があるということにほかならない。

日本国憲法は、そのような戦争の結果、われわれ日本国民が手にしたものであって、この憲法最大の特徴とその真ずいは、前文と第9条にあると言ってもまちがいないであろう。民主主義的な原理や基本的人権などに関する諸規定は必ずしも日本国憲法独特のものというわけではなく、まさに憲法9条の原理と精神こそ特殊の歴史をもつ日本独自のものといえよう。

憲法9条の第1項に類する規定は、国連憲章や世界各国の憲法ないし基本法のなかにもみることができるが、同条第2項の規定こそ、まさに世界的にみても日本国憲法以外にはみることができない特殊かつ独特のものである。

その第2項は、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定している。

つまり、今日の自衛隊はここにいう戦力であって、明白に違憲であるというのが、原点的かつ原則的な理解であり、解釈であるというべきである。つぎに、「その他の戦力」とは何を意味するのであろうか。「押しつけ憲法論」に立脚して日本国憲法を英文でみるというわけでは絶対にないのであるが、たまたま日本国憲法の英訳をみると、その他の戦力」をother war potential と表現している。つまり潜在的に戦争に通ずるものは一切保持しない、というのが厳密な解釈であるといわなければならないのであろう。ということは、在日米軍基地や在日米軍、日本の軍需生産工場とそこでのすべての製品、さらには戦闘員(兵士)養成につながる軍国主義教育なども、すべてが禁止されるべき対象であり、したがってすべて違憲である、ということになるべきである。

ところが、戦後日本史をみると、このような原則的な理解や解釈を重視かつ尊重することなく、自衛隊をはじめとして憲法を恣意的に解釈することによって違憲状態をつづけ、かつ、積み重ねて、いつしか今日では世界的にみても有数の軍事大国の域に達しているといわなければならない。にもかかわらず、明文改憲だけはいまだにおこなうことができないというのもまた事実である。
3改憲志向の自民党

1955年の「保守合同」によって、自民党が結成されたが、同党は発足当初から憲法改定を党是としてきた。いうまでもなく同党の改憲論は、基本的に「押しつけ憲法」論に立脚するところのいわゆる「自主憲法制定論」である。

歴代自民党政権は、例外なく目標としては党の基本方針どおり明文改憲をめざしてきたのであったが、国民のなかに存在する根づよい「反戦・平和」の気持と世論が、政府や政権与党に公然と改憲を口にすることを許さなかった。そういうなかで、少なくとも公然と事実上の日本国憲法を否定する方針をかかげて登場した自民党政権が二つ存在した。一つは、1980年代の「戦後政治の総決算」という標語をかかげて登場した中曽根内閣であり、いま一つが「戦後レジームからの脱却」を唱えつつ登場した2006〜7年の安倍政権である。ここでいう「戦後政治」といい、「戦後レジーム」というのは、いずれも、戦後の日本国憲法下で推移してきた日本のあり方を根本的に変えること、つまり、言いかえれば日本国憲法ではない別の憲法に変えるべきである、ということを意味している。

事実、中曽根内閣は、「行政改革」「教育改革」「憲法改定」の三つを「われわれのコース」と位置づけたうえで、いわゆる「臨調行革」の名のもとで「国鉄の分割民営化」の断行をはじめとして、改憲という最終目標へ向っての諸方針の実施に着手をした。しかし、中曽根政権時代には、たとえば同じ保守でも後藤田正晴氏のようなハト派の政治家がいて、官房長官の位置に座るなどしていたため、中曽根首相による一路改憲に向けての暴走は不可能であった。にもかかわらず、中曽根内閣はアメリカの「レーガノミクス」、イギリスの「サッチャーイズム」、中曽根「臨調行革路線」といって、米英両国と同じように、新自由主義的な政策を推進することによって、経済的な格差の拡大と軍需大企業の育成など、「富国強兵」政策の基礎固めを着々とすすめたし、とくに、原発導入の道を拓いたことを忘れてはならない。

問題は安倍政権である。筆者は昨年の本誌5月号の誌上で、「安倍首相の改憲論ー思想的源流とその矛盾ー」と題して、主として同首相の思想の解明を中心とする論稿を草した。ここでは、主として昨年の憲法記念日(5月3日)以後における最大の施策=7月1日の集団的自衛権の行使容認にかんする閣議決定とその法制化問題および「70年安倍談話」の二つに焦点をあてて考察を試みたいと思う。

改憲を「ライフワーク」とも「歴史的使命」とも「宿願」とも表現する安倍首相は、2006年〜7年の第1次政権時代に、 国民投票法の強行、 教育基本法の改定、 防衛庁の防衛省への格上げの三つを断行した。これが改憲への「外堀」を埋める意味をもつことはいうまでもないが、同政権は諸種の事情で約一年の短命に終った。

第1次安倍政権のあと、福田、麻生と2代の自民党時代がつづいたが、2009年8月30日の総選挙によって政権交代=民主党政権への移行ををみた。しかし、鳩山、菅、野田と続いた3代の民主党政権の悪政・失政が国民の失望・落胆・怒りを買い、2012年の末の総選挙で自民党政権が復活し、第2次安倍政権が発足した。

第2次安倍政権の施政をみるうえで、次の点だけはぜひおさえておきたいと考える。それは、安倍晋三という政治家の最近までの仕事場のことである。安倍首相は、権力の館として総理官邸とその周辺で切れ目なく働きつづけていたという経歴の持主である。すなわち、森・小泉内閣で官房副長官として3年。郵政解散後の小泉内閣で官房長官として1年。その合計4年の総理官邸経験の延長線上に第1次政権の総理として1年。2012年暮にカムバックしてすでに2年有余。それらを合計すると通算7年超、自己の仕事場は切れ目なく総理官邸一カ所ということになる。これで果して、庶民の生活や気分・感情がほんとうに理解できるのであろうか。今日におけるアベノミクスをはじめとする安倍政権下の国民の世論状況は各種世論調査によってもすでにそれをはっきりうらづけている。

しかし、それにもかかわらず内閣支持率が依然として50パーセント前後を保持しているというのはどこに原因があるのだろうか。それは、いうまでもなく、総選挙や参院選挙で、自民党が「一強多弱」とマスコミが言うように圧倒的多数を占めているうえに、公明党というあたかも福祉と平和の党然と振舞う政党を政権与党にかかえこんでいるという政党状況に加えて、閣内においても自民党内においても安倍首相(総裁)に異議を唱えたり、忠告をすることができる政治家が皆無だという事情が基因しているのであろう。国民は安倍政権を積極的に支持しているのではなく、何となくこの政権の安定性と長期政権となることを予想しつつ、アベノミクスをはじめとする同政権の政策への淡い期待感をいだいているというのが実態であろう。

安倍内閣は、すでに自衛隊の量的・質的増強ともいうべき3点セット、すなわち 国家安全保障戦略 新防衛計画大網 中期防衛整備計画(中期防)の閣議決定を終えており、武器輸出3原則の見直しとその緩和も断行している。戦争計画の司令塔ともいうべき国家安全保障会議(日本版NSC)も設置されており、戦争体制とは密接不可分の特定秘密保護法も強行成立をみている。残るは自衛隊の活動範囲を広げることと戦闘行為の態様を本格的軍隊並みに引き上げることのみとなっていた。そこで安倍政権が持ち出してきたのが、従来の憲法解釈の変更による集団的自衛権行使容認問題である。

歴代政権の憲法解釈によって可能だとされてきたのはせいぜい個別的自衛権までであったが、ついに安倍政権は集団的自衛権の行使も可能だという憲法解釈にまでふみこんだのである。それが昨2014年7月1日の集団的自衛権行使容認の閣議決定である。

もちろん閣議決定のみで、自衛隊の行動様式の変更や行動範囲を広げることは不可能なのであって、法律の改定ないし新法制定がどうしても必要となる。そこで問題となるのが一連の安保法制問題である。

新しい安全保障法制についての自民・公明両党の協議が去る4月21日事実上決着した。安倍内閣はこの与党合意をもとに5月中旬にも関連法案を国会に提出する腹づもりであるが、成立すれば海外での自衛隊の活動が飛躍的に広がることとなる。一連の安全保障法制というのは、大きくわけて「日本の防衛」と「世界での活動」との二つの目的にわかれ、主に四つの法案の新設や改正に集約されるという。

改正の一つは武力攻撃事態法について、個別的自衛権に加え集団的自衛権の行使を可能にするため、日本と密接な関係にある他国が攻撃され、「日本の存立が脅かされる明白な危険がある」事態を想定し、「他に適当な手段がない場合」に日本が直接武力攻撃を受けていなくても武力行使ができるようにする。第二に、周辺事態法も、まず名称を「重要影響事態法」に変え、日本周辺という地理的な考え方をなくして「日本の平和と安全に資する活動」であれば世界中に自衛隊を派遣できるようにすると同時に、支援対象も単に米軍のみならず米国以外の軍隊にも広げる。第三の改正はPKO 法である。武器使用基準を緩和し、海外でのPKO 以外の復興支援活動も可能にする。新設法案としては、従来のテロ特措法とかイラク特措法のような個々の事態毎に立法する形式をやめて、いつでも自衛隊を海外に派遣できる「恒久法」として「国際平和支援法」という名の法律を新設するというのである。

「○○事態」という表現がやたらに多くて、国会議員にさえわかりにくいと言われているこれら一連の法案の成立をなぜこんなに急ぐのであろうか。ある新聞の社説にも「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」という交通標語になぞらえて、自公両党はこれら一連の安保法制案の成立をなぜ急ぐのか、という疑問を呈していたが、それは恐らく、4月27日に予定されている「日米防衛協力指針」いわゆる新ガイドラインの確定と、同じく4月28日の安倍首相の訪米とアメリカ上下両院合同会議での演説までに、という安倍政権の思惑が前提になっていたに相違ないであろう。ここにも「強い日本をとりもどす」といっているように、戦前の大日本帝国なみの「富国強兵」の日本実現を夢みると同時に、中国を意識するところからくる対米従属性と日米同盟強化の路線からは脱却することができない安倍政権のはらむ矛盾が露呈しているといえよう。まさにアマルガム(amalgam)という表現がぴったりする安倍政権の本質をみるおもいである。

そこで問題の「70年安倍談話」である。その内容を予想するうえで手がかりになるのが二つある。一つは、去る4月22日・23日に開催されたインドネシアのジャカルタでのアジア・アフリカ会議(バンドン会議)60周年記念首脳会議における安倍首相の演説であり、いま一つは、4月下旬の訪米の際の米上下両院合同会議での演説である。

すでに終了したバンドン会議の演説では、予想通り「村山談話」の核心的命題にはほとんどふれることがなかった。すなわち、日本が過去、「植民地支配」と「侵略」を行ったこと、そのことにたいする「痛切な反省」と「おわび」というもっとも重要な核心的部分にはほとんど言及しなかった。この会議に出かける前日の夜の民放のテレビ番組のなかでも、「村山談話」と同じことを言うのであれば「談話」の意味がないと言っていたので、恐らく歴代内閣のように「村山談話」の精神を踏襲したくないというのが安倍首相の本心なのであろう。

米議会演説も基本的には変わらないだろうと予想される。自民党の準機関紙と言われている「産経」紙は4月24日の紙面で、「首相演説 祖父の思い継ぐ」という大きな見出しのもとで、1957年6月の首相の祖父岸信介首相(当時)の米下院における演説の趣旨をうけつぐような演説になるのではないかと予想している。そこでの岸演説は、戦前への言及は一切なかったという。
4決着は国民投票へ

昨2014年暮の安倍首相による「大義なき解散」によって実施された総選挙の結果、小選挙区制という非民主的選挙制度のゆえに衆院で自公両党合わせて改憲発議に必要とされる3分の2を超える326議席という「虚構の多数」議席を占めた。安倍首相の念頭にあるのは、今年9月の自民党総裁選で再選をかちとることによって、向こう3年間首相の地位を安定的に保ち、来年(2016年)夏の参院選においても衆院同様自公両党で3分の2以上の改憲議席を獲得することによって、2017年には国民投票に持ちこみたいと考えているにちがいない。自民党は野党時代ではあったが、すでに2012年4月に憲法改定草案を決定・発表していたということと、自民党以上に右よりの思想や政策の「維新の党も存在しており、野党の民主党議員のなかにも改憲派の議員がいることなどが、改憲を急ぐ自民党の背中を押していることを忘れてはならない。

解釈改憲をつみ重ねることによって、日本を外国のためにも、いつでもどこでも戦争ができる国になるところまで安倍政権はこぎつけたのであるが、本命は明文改憲であるかぎり、憲法をめぐるたたかいの最終決着の場は国民投票である。

9条の会をはじめ憲法改定に反対する民主的諸団体も、戦後70年という節目の年だということもあり、今年の憲法記念日(5月3日)はかつてない規模の大集会(於横浜)を計画している。対する改憲勢力もまた、国民投票を前提として、たとえば「美しい日本の憲法をつくる会」と称する団体のごときは「改憲1000万人署名活動」を展開しようとしている。

「憲法運動」を提唱し、実際に運動を展開してきた憲法会議は、今春、結成50周年記念の憲法講座を開設した。同講座において講演をおこなった代表幹事の川村俊夫氏は、講演の結びの部分で「私たちは集団的自衛権には反対するけれども、個別的自衛権には賛成という立場ではありません。個別的自衛権を認める人たちとの共同、あるいは立憲主義を破壊することには反対だが9条を変えることには必ずしも反対ではないという人たちとも、一致点での共同をすすめますが、それは日本国憲法の基本的立場をあいまいにしてよいということにはならないからです。あくまでも憲法の基本的立場を守る運動を独自にすすめながら、ということです」とのべた。(月間「憲法運動」440号)

(はただ・しげお:国際政治学)

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