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時潮

さまよう民主主義
事務局長 吉元 伸
最近の安倍首相は、高支持率を背景に次々と民主党政権時代の政策の見直しをしている。そのことが国民の目には実行力のあるリーダーと映って、高支持率につながっているのかもしれない。その見直し中でも、安倍首相が「原発ゼロ方針の見直し」を明言したことには驚かされた。

原発事故直後に政府が国民から募ったパブリックコメント9万件のうち、9割近くが「原発ゼロ」の意思表示をし、その後官邸前をはじめ全国各地の脱原発デモも今までにない盛り上がりを見せた。そのような民意に押されるような形で「原発ゼロの」閣議決定がなされたはずだ。私たちもデモに参加しないまでも、無尽蔵にあると錯覚し、空気と同様に自由に消費していた電気。それがこんな危うい土台の基にあることに気付かされ、計画停電や節電にも進んで協力し、そして原発に頼らない将来を予感していた。そのようななかから、国民的な選択として「原発ゼロ」があったのではないか。

今もまだ放射能汚染は収束の方向さえ見えず、被災地に深刻な被害を及ぼしている現実をみると、この間に大きく民意が変化したとは考えられない。

国民の民意とかけ離れた政策決定。このことに、私たちは改めて民主主義とは何かを考えさせられる。もちろん昨年の総選挙で与党が大勝し議席の上では多数を占めることになり、それもひとつの民意の表れといえばそうかもしれないが、今の選挙制度自体民意を正しく反映するようなシステムになっていない。原発だけでなく消費税や憲法9条問題でも世論とかけ離れた選挙結果となった。刻々と変化する社会情勢と選挙で選ばれた代表の感覚がますます開き、そのことは国民のとりわけ社会から離脱しかかっている社会的弱者の政治に対する失望感をさらに深めている。国民の代表である議員が国民に代わって意思決定する間接民主主義がその機能をはたせず、民主主義的プロセスはすっかり形骸化してしまった。

それは議論を深めるべき議会内においても同様である。多数決の原則のみが絶対的な権威を持ち、選挙で多数を占めた政党の政策が民意であって、その他の意見は政策の成立を遅らせるやっかいものとしか感じない感覚では立法府の信頼も揺らぐ。

政権与党が自分たちの意に沿った新しい政策を進める場合、省庁が審議会や有識者会議などを設ける。しかし、その実態は国民の知らないうちに出席する委員を選び、非公開の会議を経て、官僚が用意した事務局案に沿った形で答申案がまとめられる。これらは法案成立までの民主主義的なセレモニ- の一環として形作られ、本来は専門家の批判や意見を聞く大事な場にもかかわらず、その本質をゆがめてきてしまった。

間接民主主義が機能不全に陥っているとすれば、どうすればいいのか。

ひとつの方法が直接民主制の採用である。都市国家を形成していた古代ギリシャでは、都市間の戦争にスピー デイー に対処すべくすべての市民が集まる民会が頻繁におこなわれ、公職に着く人は抽選によって選ばれていたという。この直接民主制は昔の話ではなく、現代でもその価値を見直されている。

昨年訪れたスイスでは現地在住の通訳の人がこれから国民投票に行くという。スイスでは国民が一定の署名を集めれば国民投票を要求でき、年に何度も国民投票が行われる。通訳氏も昨日は家族で話し合ってそれぞれの投票を決めたとのこと。投票する煩わしさもあるが、国民から不満の声が聞こえてこないのは、議員に政治を任せるのではなく政治に直接参加したい人が増えてきているためではないかと言っていた。

あらゆる事柄を国民投票することはなじまないが、国民にとって重要な事項は国民投票を行い、議会もその意見を尊重するそのような新たなシステムを構築していかないとますます政治と国民が解離してしまう。国民投票だけでなく新たな方法も模索しなければならない。煩わしくても「自分たちのことは自分たちで決める」ことが民主主義であるのなら、他人任せで済ますわけにはいかない。それは原発事故で思い知らされたはずである。

(よしもと・しん:千葉会)

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