論文

【特集 給与差押裁判】
> 給与差押訴訟和解の成果

差押禁止財産を含む預金債権の差押えの違法性と「和解」による決着
日本大学名誉教授・法学博士 北野 弘久

1  事案の概要

本誌571号(2009年5月)でも紹介した差押禁止財産である給与を含む(振り込み)預金債権を課税庁(玉村町)は、いわゆる債権差押えした。差押えた課税庁側の論理は、差押禁止財産であることを識別できる場合であっても、いったん給与債権が銀行の口座に振り込まれると、それはすべて預金債権に変質するというのである。預金債権は、差押禁止財産の性格を承継しないというのである。

本件納税者はサラリーマンである。納税者は、自己の国民健康保険税や町村税など地方税を滞納していた。課税庁は、納税者の給与分が預金口座に振り込まれた直後に、滞納地方税を徴収するために、本件預金口座の差押えを行った。納税者の預金口座には残額1,661円しかなく、当日振り込まれた給与分198,289円だけがそれに加わったということが識別できた。課税庁は、両者の合計額199,959円(利息9円を含む)の全額を差し押えた。

本件について具体的にいえば、199,950円のうち国税徴収法76条で差押え禁止となる部分は153,000円である。
筆者は、この問題について2009年8月に本件差押えのうち差押え禁止財産153,000円の部分については違法となるとする税法学鑑定書(本誌571号)を前橋地裁に提出した。

日本国憲法25条(自由権的生存権)は租税の課税段階では最低生活費非課税を含む応能負担原則(憲法13条、14条、25条、29条等)を要請し、そして租税の徴収段階では本件で問題になっている差押禁止財産(国税徴収法75条、76条、77条、78条等)を要請する。このほか、納税の猶予、換価の猶予、滞納処分の停止などの措置も徴収段階における憲法25条(自由権的生存権)の要請である。

原告納税者側の本訴における「請求の趣旨」は本件債権差押処分の取消し、国家賠償法1条1項による80万円の損害賠償である。
2010年2月3日に前橋地裁は、原告の請求を却下、棄却するという驚くべき判決を言い渡した。もちろん、納税者は2010年2月17日に東京高裁へ控訴した。

ところが、第1審前橋地裁で勝訴した課税庁側から和解の申立てがあり、2010年3月21日に和解が成立した。納税者側の実質勝利である。控訴された課税庁側からの和解の申立てはあまり例がない。
本件の納税者側代理人は、鈴木智之弁護士である。ねばり強く、実質勝利を意味する和解を引き出させられた同弁護士に対し深い敬意を表したい。

2  第1審判決の内容

第1審前橋地裁2010年2月3日判決は、本件の中心争点について次のように判示する。

「原告は、本件預金債権はその大部分が本件差押処分の日である2008年5月23日に勤務先から振り込まれた給与によって生じたものであるから、実質的に給与の差押えと同視すべきであり、その金額を差し押えることは国税徴収法76条に違反して違法である旨主張する。

国税徴収法76条は、給与収入が給与生活者の生計に占める重要性にかんがみ、給与生活者の最低生活の維持等に充てられるべき金額に相当する部分の差押禁止を定めたものであるところ、給料等が金融機関の口座振込みの方法により支払われる場合、その給料等の支払請求権は、使用者が給与を指定預金口座に振り込むことによって消滅し、口座開設者と金融機関との間に預金支払請求を巡る債権債務関係が成立するのである。当該債権の法的性質は、口座開設者(滞納者)と金融機関との間に消費寄託契約に基づく債権があり、給料等の支払請求権とは明らかに法的性質を異にするし、給料等のような生活保障的要素が考慮されるべきものではない。

このような預金債権の法的性質に加え、給与の差押禁止を定める国税徴収法76条が給料等に基づき支払を受けた金銭についてその一部を差押禁止とする一方(同条2項)、給料等の振込みにより成立した預金債権について何ら触れていないことにかんがみれば、預金債権の原資が給料等であったとしても、その差押えが国税徴収法76条に違反することにはならないと解すべきであり、このことは、預金債権に占める給料等の割合及び給料等の振込みの時期によって左右されるものではないというべきである。
したがって、国税徴収法76条違反という原告の主張は理由がない」。

筆者の鑑定所見書(本誌571号)においても詳論したように、少なくとも本件に関する限り、第一審判決や課税庁側の主張・考え方は明らかに誤りである。

すでに指摘したように、国税徴収法76条の差押禁止財産は、日本国憲法25条の自由権的な生存権(社会権ではない)の直接的要請である。銀行預金債権のうち明らかに差押禁止財産部分を識別できる場合には、「給与債権が預金債権」に変じて、差押禁止財産云々は問題にならないとする判決の考え方はおよそ成立しない。

現代においてはサラリーマンへの給与の支払いは、現金で直接交付される例は少なくなっている。当該サラリーマンの銀行口座に「振り込み」という形で支払われる場合が多い。つまり、銀行口座への「振り込み」が給与の「支払い」なのである。判決のような考え方では、国税徴収法76条の規定は無意味となろう。

国税徴収法76条の差押禁止財産は、日本国憲法25条の自由権的生存権の具体化である。それは、すでに触れたように租税の徴収段階で人々の「健康で文化的な最低生活」を保障しようとするものである。その意味で、課税庁や判決のような考え方に従って本件納税者に国税徴収法76条(給与の差押禁止)を適用しないことは、いわゆる「運用違憲」(憲法25条違反)を構成するといわねばならない。
納税者側は、2010年2月17日に当然に東京高裁へ控訴した。

3  和解の成立

納税者側が控訴中であったのであるが、課税庁側から「和解」の申し立てがあった。
和解の成立は2010年3月31日。
和解の概要は以下のとおりである。

(甲)納税者
(乙)玉村町

甲と乙は、前橋地方裁判所平成21年(行ウ)第2号、同年(行ウ)第7号滞納処分取消等請求事件について、以下のとおり和解する。

第1条 甲と乙は、納税制度についてその必要性及び納税者の生活実態の尊重が共に重要であることを相互に認識し、本件事件を円満解決することに合意する。
第2条 乙は、甲に対し、本件事件の解決金として金620,000円を支払うものとし、これを平成22年3月31日限り甲に直接交付する方法により支払う。
第3条 甲は、納税の重要性を認識のうえ、本和解の席において、前条の解決金の中から金321,441円を乙に納税する。
第4条 甲は、本和解成立後速やかに本事件につき訴えを取り下げ、乙はこれに同意する。
第5条 甲と乙の間には、その他一切の債権債務が存在しないことを相互に確認する。

これにより納税者側は2010年3月31日に訴えを取り下げた。

4  まとめ

本件は、勝訴した課税庁側からの申し立てにより和解が成立した。課税庁側は第1審前橋地裁で勝訴したのであるが、同判決の内容がなにか社会の常識、正義に反すると考えるにいたった結果と推察される。

課税庁は、勝訴判決を受けた後、問題の本質論に立ちかえって、日本国憲法25条(最低生活の保障)の趣旨に従って反省されたものと思われる。課税庁ですら自発的に反省しているのに、第1審前橋地裁は社会の常識に反する判決を公然と示した。まさに司法の恥である。
今回の課税庁(玉村町)側の反省は、日本の裁判官に向けられたものとみなければならない。

(きたの・ひろひさ)

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