沖縄・宜野湾市の市街地にある普天間飛行場 これは「世界一危険な基地」といわれている。1995年におきた在沖縄の米海兵隊員による少女暴行事件をきっかけに、沖縄の基地問題が日米間の熱い争点となるなかで、95年11月に日米間に「沖縄における施設と区域に関する特別行動委員会」が設置された。この委員会は略称〜 (SPECIAL ACTION COMMITTEE ON FACILITIES AND AREAS IN OKINAWA)と呼ばれている。
SACO合意をうけて橋本首相(当時)がモンデール駐日米大使と直接交渉し、96年4月、5〜7年以内に普天間基地を返還するという約束をとりつけた。その後、度重なる交渉を経て、普天間基地の代替基地として海兵隊キャンプ・シュワブ沖の海上を埋め立てて航空基地を建設することで合意をみた。
しかし、「辺野古の美しい海を汚すな」「ジュゴンを守れ」などの要求をかかげた名護市民の抵抗闘争は根づよく、結局、今日まで14年間、辺野古の海には杭一本打たせないまま事態が推移した。今年1月24日投開票の名護市長選挙では、新基地建設反対派の稲嶺進候補が勝利した。
鳩山内閣の迷走がつづくなか、去る4月25日には超党派の沖縄県民大会が開かれ、9万人余の結集で反基地の県民の心を内外に強く印象づけた。
普天間基地はアジア太平洋戦争の末期の沖縄戦の時、米軍が本土進攻にそなえて構築したという歴史をもつ在日米軍の基地のなかで最古の基地である。今日、普天間問題に日米安保体制の矛盾の焦点として、日米間のもっともホットな課題として浮上している。普天間問題解決の方向を探求するうえでも、ここで安保問題のそもそも論に言及しておく必要があろう。 |