学問上の一般消費税(general consumption tax)としての「消費税」(昭和63年法律108号「消費税法」で規定する「消費税」)それ自体について、憲法上2つの問題を指摘することができる。
1つは「消費税」は憲法の応能負担原則の趣旨に反するという点である。この応能負担原則の法的根拠は、憲法13条(個人の尊重)、14条(法の下の平等)、25条(生存権の保障)、29条(財産権の保障)等である。
消費税を負担する本当の納税者(担税者)は各人の意思とは無関係に、逆進的な負担を余儀なくさせられるという点である。一般消費税は、個別消費税(specific consumption tax)とは異なり、課税対象が特定・限定されない。一般消費税である消費税は、あらゆる物品・サービスに対して課税される建前であるので、人々はその消費行為にあたって消費税を負担するかどうかを選別する余地がない。人々は、人々の生活必需品などにも消費税の負担を余儀なくさせられる。消費税は、憲法の応能負担原則の趣旨に反することには疑問の余地がない。
この点、従前の物品税のような個別消費税の場合には、課税対象の選別、課税対象ごとの免税点・税率・納税方法等を区別しうるためにそれなりに応能負担原則の趣旨を生かすことができる。
2つは、一般消費税である「消費税」は憲法の国民主権原理を空洞化させるという点である。日本国憲法は、租税国家(Tax State, Steuerstaat)体制(その国の財政収入のほとんどを租税に依存する体制)を前提としている。租税国家では、私たちの平和・福祉・人権なども租税の取り方(負担の仕方)と使い方とによって基本的に決まる。租税国家の民主主義は、納税者によって租税国家の運営(租税の徴収と使途)のあり方を監視(ウォッチング)され統制(コントロール)されることによって維持される。
ところが、一般消費税である「消費税」は、あらゆる物品・サービスに対して課税される建前になっているので、消費税を負担する人々(担税者)は自分の意思とは無関係に法形式的にも租税法律関係から排除される。よく知られているように、所得税の源泉徴収の段階では、本当の納税者であるサラリーマンは事実上租税法律関係から排除される。所得税の源泉徴収の段階の租税法律関係は、課税庁と源泉徴収義務者(雇主)との間のみにおいて展開されるからである。それでもサラリーマンは法形式上は納税義務者の地位を有する。
消費税のような間接税では、租税法律関係は、課税庁と税法上の納税義務者である事業者との間のみにおいて展開される。本当の納税者である担税者は法形式的にも租税法律関係から排除される。本当の納税者である担税者には「消費者」という地位しか与えられない。筆者は、本当の納税者(担税者)は法形式的にも「植物人間」の地位に追いやられると指摘してきた(拙著・岩波ブックレット『5%消費税のここが問題だ』など)。
加えて、課税対象が特定・限定されない、あらゆる消費行為に課税される建前の一般消費税の場合には、自分の意思とは無関係に「植物人間」の地位に追いやられる。「植物人間」であれば、およそ租税国家のあり方を法的に監視し統制することが不可能である。本当の納税者が法形式的にも「植物人間」になるということは、憲法の国民主権主義が空洞化されることを意味する。憲法学では主権概念としてナシオン(nation)主権とプープル(people, peuple)主権との2つを区別する。日本国憲法の「国民主権」とはプープル主権という意味でのそれである。立憲主義国家にとって、この国民主権主義の空洞化はあまりにも重大である。
この点、かつての物品税のような個別消費税の場合には、課税対象が特定・限定されているので、人々は自分の意思によって課税対象を選別することが可能であり、その選別を通じて消費税を負担するか、換言すれば「植物人間」になるかを決しうる。 |