論文

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映画『不撓不屈』と飯塚税理士の実像
- 飯塚事件とTKC全国会について -
東京会関本秀治  

飯塚毅氏の人となり

吉田敏幸先生は、「覚書」で、次のように述べておられます。それは、はじめて飯塚事件のことを知り、東京税理士会浅草支部で、有志が集まり、飯塚氏を招いて事件の真相を聞いた時の様子を描いた部分です。
飯塚氏の報告を聞いているうちに、彼に対する敬服の念と当局に対する憤激と共にふと「二つの違和感」を私は感じた。

一つは、飯塚氏が、「東京で、このように立派な皆さんにお会いして百万の味方を得た思いです。私のところ(注 栃木県鹿沼市)では税理士も税務職員も程度が低く、馬鹿ばっかりです。」と言ったこと。
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もう一つは、飯塚会計事務所の経営管理組織と税法学に関する造詣について、「世界一」と思われる飯塚氏の自惚れである。

飯塚氏と初めて会った時に、私が感じた飯塚氏の大衆蔑視感と自己過信の印象は、その後何回となく飯塚氏との友好的な接触を続けた中でも変らず、今日まで来ている。
映画や小説の『不撓不屈』の中では、中小零細企業家や納税者の立場に立って、個人的な利害関係を捨ててひたすら献身的に活動する不屈の闘士のように描き出されていますが、実は、第一印象で、「大衆蔑視と自己過信」の権化であることを見破られてしまうような人柄であったことがうかがえます。

飯塚事件で逮捕された4人の職員の刑事裁判は、飯塚氏が国税当局と「和解」した後も続けられました。これは、飯塚氏の「和解」とは関係なく、刑事事件として起訴した以上、検察側が公訴を取り下げない以上、判決が出るまで続けられます。検察の面目にかけても、一度起訴したら、途中で公訴を取り下げることはありえませんから、結局、昭和45年(70年)11月11日の無罪判決まで続けられ、検察側の控訴がなかったため無罪が確定しました。

吉田敏幸先生は、飯塚事件の刑事裁判で、昭和44年(69年)2月25日に、弁護人側の証人として宇都宮地裁の法廷で証言されています。他にも証人を依頼した税理士が居られたようですが、結局、当局の圧力か何かの理由で証言を断り、吉田先生だけが税理士として証言されたことになります。

この日、飯塚氏は、吉田先生に、「最後まで、この飯塚のために動いて下さったのは、吉田先生だけです。心から感謝します。」と礼をいっています(「覚書」24ページ)。

その日、無罪になった4人の被告人の人達に、吉田先生が、「あなた達は、どうして飯塚事務所をやめたのですか」と尋ねると、「とても、飯塚先生には、ついて行けませんから」と答えたということです(「覚書」25ページ)。「所長が絶対に責任を負わされることがない」マニュアルで仕事をさせられている職員としては、当然だろうと思います。

映画では、保釈された職員4名が揃って飯塚所長の前で、「退職したい」旨の申し出があり、飯塚氏は、「御苦労様でした。それぞれ独立するのがいい。お客様も持っていっていい」と快くこれに応じたことになっていますが、実態は果たしてどうであったのか、私にはわかりません。それを推測するには、吉田先生に対する4人の元職員の方々の感想が参考になるでしょう。

「覚書」によれば、飯塚事務所を激励訪問した後、中央経理事務所の職員に感想を聞くと、「素晴らしく近代化された飯塚事務所の内容にはびっくりしましたが、あの事務所に勤めたいとは思いませんね」ということだった(「覚書」25ページ)そうですが、この言葉の中にも飯塚氏の人となりが現われています。

税経新人会に対するTKC会報を使っての反共攻撃や反駁文の中でも、飯塚氏は、自分が一番偉いのだといわんばかりの態度がありありと表われていて、いかにも見苦しいものがあります。そこには、通常、立派な人格者が持ち合わせている謙虚さや奥ゆかしさは微塵もありません。

飯塚事件の歴史的背景

昭和38年(63年)といえば、木村国税庁長官が、強権的な税務行政を推進するために、その執行の妨げとなる民主商工会を撲滅することを宣言し、全国的な民商弾圧を開始した年です。また、国税内部では、全国税労働組合に対する弾圧、分裂工作がはじまり、第二組合を作らせ、人事や昇給で第一組合を差別する策動を初めた時期とも一致します。

これは、その前年、昭和37年(62年)の国税通則法制定のときに、民商や全国税、それに、わが税経新人会などが中心になって反対運動を展開し、当局が当初企図していた「一般的な記帳義務規定」、「実質課税の原則」、「無申告脱税犯」など重要な5項目を削除させた運動がその背景にあったといえます。

国税通則法は、前年の税調答申を忠実に法案化したものですが、答申が発表されるや否や、学界でも大きな論争が展開され、日本税法学会でも、内閣総理大臣宛に各論を含めて「意見書」を提出しました。国税通則法制定反対運動は人格のない社団等の規定をめぐり税制などに普段はほとんど関心のなかった労働組合にも拡大し、政府は、予想もしていなかった強い抵抗に出会うことになります。

この反対運動は、与党議員にも影響を与え、原案に固執すると廃案に追い込まれる可能性もでてきたので、昭和37年(62年)2月には、大蔵省主税局が異例の声明を発表し、前記5項目を削除し、将来の検討課題とすることになりました。こうして、国税通則法は修正のうえ昭和37年(62年)4月2日、ようやく成立し、即日公布、施行となりました。

全国税労働組合に対する弾圧、民商に対する弾圧は、この国税通則法反対闘争に対する国税当局の「仕返し」という性格を持っていたといえます。

また、当時、国税当局は、税理士制度を、税務行政を補完するための制度として再構築することをねらいとして、税制調査会に対して、「現行税理士制度の改善策」を諮問し、税調は、昭和38年(63年)12月6日、「税理士制度に関する答申」を提出しました。

この答申に基づいて、政府は「税理士法改正案」を作成、昭和39年(64年)4月7日、法案を国会に提出しました。この法案は、税理士業界の内部や受験者の間で大きな議論を呼び、業界内部からは、税理士の使命の明確化や、税理士の自主権の確立などの要求が強く出され、議員への働きかけなども活発に行なわれたほか、受験生からは、科目別合格制度を一発合格制度に改めることについて強い反対運動が展開され、これらの運動が与党議員も動かし、これらの運動が相乗的な効果をあげて、昭和40年(65年)6月1日、48回通常国会の閉会に伴い、審議未了廃案となりました。

税理士業界では、この運動を通じて「納税者の権利を擁護するための税理士制度」の確立の必要性が認識され、後に、「税理士法改正に関する基本要綱」を作りあげる契機となりました。もっとも、その後、日税連執行部の変節により、「基本要綱」は棚上げされ、昭和39年(64年)「改正」案とほとんど変らない税理士法の「改正」を、違法な政治献金までして、昭和55年(80年)の成立を許してしまいました。

これらの「改正」の主な点は、税理士の行う業務の対象を原則全税目としたこと(消費税の導入を想定して)、会計業務を付随業務として法定したこと、税理士事務所職員に対する監督義務を法定したこと、脱税等を発見したときの助言義務を新設したこと、などです。試験制度は、旧法をそのまま残しました。受験生の反対をおそれたからです。

このような、税理士法の「改正」を目前に控えて、国税当局に抵抗するような税理士はつぶしておこうという思惑が国税当局にあり、これが飯塚税理士に対する弾圧となって現われたのであり、このような社会的、政治的背景があったことをみておかなければ、飯塚事件の本質を正しく把握することはできないでしょう。

民商弾圧に伴って、脱会させた小規模業者の面倒を誰がみるのかという課題もありました。そのために作られたのが、昭和38年(63年)10月30日の国税庁、日税連、青色会の三者協定です。当局は、商工会や商工会議所の職員に、「臨税」(臨時に税務書類の作成をする者、国税局長の権限、税理士法50条)資格を与えることによって、これを青申会に取り込もうとしましたが、臨税の拡大に反対する日税連の抵抗で、税理士がその仕事を引き受けることで結着させられたのがこの三者協定です。無料申告相談に税理士が半強制的に狩り出されるようになったのは、三者協定の結果で、それが拡大されながら現在に至っています。「税務援助」も昭和55年(80年)「改正」税理士法で法定されました。

飯塚事件当時の情勢は、だいたい以上のとおりです。

結びにかえて

映画と小説『不撓不屈』は、飯塚事件が起き、彼が、当時、国税当局の不当な弾圧に抗して闘った姿だけが描かれており、プロローグとエピローグでは、いきなり昭和59年(84年)、平成2年(90年)に話がとんでしまっています。実は、この間に彼は大変身、大変節をとげていたのです。

原作は、ドキュメンタリー小説で、登場人物は、木村秀弘国税庁長官、鳩山威一郎国税庁直税部長、安井誠関信局直税部長など、すべて実名で登場します。飯塚毅氏はもちろん、逮捕された職員4名も実名です。それなら、読者や観客は、作者たちに、主人公は、その後も信念を貫きとおして権力の横暴と「不撓不屈」に闘い抜いたのかどうかを聞く権利があるように思いますが、どんなものでしょうか。

国税当局の不当な弾圧と闘い抜き、それに勝利したという小説や映画のテーマと、自民党や国税当局が推進する「民商対策」としての小規模事業対策に自ら進んで協力し、TKC全国会の会員に強制的に税務署に「協力申込書」を提出させた行為、あるいは、除名のおどしをかけながら、自民党議員の後援会に加入させ、選挙運動に狩り出した飯塚毅TKC全国会会長のその後の言動とは、いったいどのようにつながるのでしょうか。説明はつけようがありません。

人の評価は、その人の生涯を通じた言動によってはじめて客観的にきまるものだと考えるのは私だけでしょうか。原作者は、飯塚氏の「よいところ」だけを聞かされて、それを小説に仕上げてしまったのでしょうか。

映画館で買ったパンフレットによると、原作者は、取材に7〜8割の時間をかけ、執筆には2〜3割の時間しかかけないと語っています。それなら、TKC設立後の飯塚氏の行動についても、きちんとした取材をして、作品に反映してもらいたかったと思います。もっとも、そうしたら、物語はまとめようのないものになってしまったかもしれません。

もしそうであれば、私なら、書くことをやめるでしょう。どんな理屈をつけてみても、飯塚事件で闘った飯塚氏と、当局と協力して計算センターの事業拡大に情熱を燃やす飯塚氏は結びつけることはできません。特に、自民党の後援会活動や選挙活動に会員を狩り立てる姿は憤りを通り越して「あわれ」でさえあります。

そういう意味では、飯塚氏は、TKCの上場などにより、経済的には大いに成功したといえますが、社会的、道義的な視点から眺めると、転落の人生を歩んだといえます。

(せきもと・ひではる:元税経新人会全国協議会理事長)

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