自民、公明両党が教育基本法の改正案を正式決定しました。改正を主張する人たちは、いじめや不登校などの教育荒廃、少年による凶悪犯罪などを「個人の尊厳が行き過ぎた結果」とし、「公共の精神」「道徳心の涵養(かんよう)」を基本法に盛り込もうとしています。しかし、いじめや不登校の問題がこのような基本法の改正で改まるとはとても思えません。たぶんこのような発想をする人は、いじめや不登校とは無縁だった人なのだと思います。
教育基本法の一条には「教育は、人格の完成をめざし、平和な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」とあります。教育の使命としてこれ以上のものはないでしょう。
この使命の達成のために十分な努力がされてきたのでしょうか。先進国では当たり前の30人学級でさえ実現できていないのです。本当に子供たちを救いたいと考えているとは思えません。いじめや不登校を口実にしているだけだと思われます。
与党の議論の中身は、科学的な検討もないまま、イデオロギー先行のものです。そのイデオロギーとは戦前の「忠君愛国」そのものです。いろいろオブラートを被せていますが、「愛国心」の記述に端的に現れています。最終的には「わが国と郷土を愛する態度」で決着しましたが、問題の本質は表現や言葉の使い方にあるのではないのです。
濃淡の差はあれ自分の国を愛さない人はいないでしょう。しかしそれは家族や郷土を愛することと同じで自然発生的なものです。それをあえて条文化し、教育基本法に盛り込まなければならないのか。「いい国であれば、愛国心は自然と湧き出るもの」(ひめゆり平和祈念資料館証言員 津波古ヒサさん)です。
また愛し方も人それぞれであって、それは個人の心の問題です。強制はしないと言っていた(当時の小渕首相)が日の丸・君が代が東京都では強制され、従わない教員は処分を受けています。愛国心の強制も杞憂におわるでしょうか。
沖縄の地方紙はこぞってこの改正案に反対の趣旨の社説を掲げています。他にも沖縄ほど明確でないものも含め多くの地方紙は疑問を投げかけています。北朝鮮の独裁体制を批判する大手マスコミがどうしてこのような改正案に鈍感なのでしょうか。
以下は教育基本法の抜粋です
教育基本法(昭和二十二年三月三十一日法律第二十五号)
われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
第一条(教育の目的)教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第二条(教育の方針)教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
第三条(教育の機会均等)すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
第十条(教育行政)教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
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