論文

ー 特集税務支援 ー
「税務支援」に「公共性」はあるのか?
―その根底にあるイデオロギーの詐称性を問う―
千葉会伊藤

「納税義務の適正な実現」は国税庁の任務では?

しかし考えてみれば、「納税義務の適正な実現」とは、国家(政府)の当然なすべき仕事ではないでしょうか。財務省設置法によっても、国税庁の任務の第一に掲げられているのは「内国税の適正かつ公平な賦課及び徴収の実現」です。「納税義務の適正な実現」は、納税者の立場からするものであるにせよ、国税庁の任務である「内国税の適正かつ公平な賦課及び徴収の実現」と結論を同じくするものではありませんか。

昔から国家は「公」と呼ばれてきましたが、このように国家行政の目的に沿った行為であるから「公共性」があるのだと、私にはそのような感触がこの[公共性]には強く感じられるのです。しかし果たしてそのように素直に、国家行政の目的に沿った行為であるから「公共性」があると信じていいものか、そのことについて今しばらく考えてみることにしたいと思います。

マスコミ紙のコラムに「国の公共性」

もう2年以上前になりますが、2003年10月21日付け朝日のコラム「経済気象台」に「国の公共性」と題する匿名の短い論評が載っていました。その後半部分を紹介します。
「国家(政府)は公益団体か。これが現在私の関心事である。政府はこれまで「公共」と「公益」の代名詞であった。民間非営利団体よりはるかに公益的で、公益中の公益の団体と考えられてきた。

しかし、そうか。政府は国民という成員をもつ。自治体にも住民という成員がいる。国、自治体もメンバーに対する排他的なサービス団体なのである。昨今の国際情勢の中で、国が真の公益のために動いていないことがますます明らかになっているように思われる。国家のエゴ、成員のための狭い権益に振り回され、人類的な公共の課題に向かっていないのではないか。アフガニスタン、イラク他で、正義のためと言いながら特定国家のエゴが出る。地球温暖化防止条約や地雷禁止条約のため人類的な公益に動いたのはむしろ民間市民団体たるNPOやNGOではなかったか。

現在、国内的にも政府に代わる新しい市民的公共の必要性が叫ばれるようになったが、国際的には国の公共性の欠落はさらに明瞭のように思われる。グローバル化を深める国際社会では、国を超えたNPO、NGOが人類的な公共の利益を追いはじめている。公共性とは何か。ますます問われる時代となった。」
コラムとはいえ一般のマスコミ紙上に、このような論評が見られたことに、「公共性」に関する時代の関心のたかまりを強く感じたのでした。

国家の「公共性」とはなにか?

しかし、国家の「公共性」を問う前に、そもそも国家とは何か、という素朴な疑問が私にはあります。国家は、私にとっては私の生まれる前からアプリオリに存在するものでしたが、その国家はそのとき明治憲法下の絶対主義的天皇制のもとにあって、私の少年から青年に移る頃には公然と中国に対する侵略を開始し、又国内においては国民の思想・言論等の自由を全く暴力的に封殺していました。

現在の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)ともかなりに似通っている権威主義的な独裁軍事国家であったのですが、そのような当時の日本を、私たちは「公共性」ある国家といってよいものでしょうか。

しかし敗戦により、平和主義、国民主権、人権尊重、地方自治をうたう新しい日本国憲法のもとで、国民の個人としての自由が回復されたのでした。

国家は、人類の歴史的段階における階級支配の装置であることも私たちは身をもって学んだといえますが、また国家の「公共性」を問うとすれば、それは上記の個人尊重の日本国憲法を現実のものとし、平和で安心して暮せる生活を人々に提供することこそが国家にとっての「公共性」ではないでしょうか。  憲法を実現すること、そのことを目的として組織された集団として国家があり、その目的のために存在するかぎりにおいてその国家は「公共性」あるものと自称し得る、といえるのではないでしょうか。

しかしいま、その憲法が危機を迎えようとしています。いうまでもありませんが、憲法9条2項を変えてこの国を戦争のできる国にしようとする動きが強まっているのです。ここはそれを論ずる場ではありませんが、もし仮にそんなことにでもなれば、この国の「公共性」は踏みにじられ、失われることになってしまいます。そんなことを許すわけにはいきません。

「税理士の公共性」は「公共性」ある国家のもとでのみ

税金の問題についていえば、まず税制が応能負担、最低生活費非課税の原則に忠実なものでなければ憲法に適応した「公共性」ある制度とはなり得ません。生活保護水準を下回る課税最低限、引下げられたままの所得税の最高税率、資産家に有利な資産所得の分離課税、大企業に特典を与える租税特別措置など、いずれも「公共性」に背くものです。輸出で儲けている大企業には他人(下請)の払った消費税を仕入税額控除としてジャブジャブ還付する一方、広げている帳簿類からわざと顔をそむけ提示がないから保存がないとして仕入税額控除を否認して中小企業を倒産に追い込む、これらすべて法律の規定にあること、租税法律主義だとしてゆるされるのでしょうか。

税務行政も、税務調査の事前通知、調査理由の開示、第三者の立会の容認、税理士の代理権尊重等その他手続法が整備され、差別のない平等原則が守られなければ、これも「公共性」を欠いたものとなります。しかし、税務手続の民主化、適正化を求める納税者権利憲章はおろか、国税通則法の一部改正すらいまだに日の目を見ていないのです。

もちろんこうして集められた税金(社会保険料等の負担を含む)の使途が、日本国憲法の理念に反するものであっては「公共性」は完全にケシ飛んでしまいます。

いちいち数え上げればキリがありませんが、税金を、談合のオマケつきでムダな公共事業に垂れ流したり、駐留米軍へのおもいやり予算等々に費消するなどのことがあってはならないのです。

おわりに・・・真の「公共性」を確立するため

いずれにしても「税理士制度の公共性」「税務支援の公共性」等々の「公共性」は、国家(行政)の「公共性」があってこそ、そのことを前提としてはじめて成立するのではないでしょうか。

もし国家が「公共性」を失った場合、その国家の税務行政に協力することは、なんら「公共性」ある行為とはならないばかりか、[公共性]に反する行為であり、「税理士制度の公共性」「税務支援の公共性」等々をいうことは詐称以外の何ものでもないことになります。

税理士制度、税務支援等々の「公共性」を税理士が自称し得るために、先ず身近な税制、税務行政、さらには税金の使途について、税理士として、主権者の一人として、日常の税理士業務のなかで、憲法に適合した真の「公共性」を確立することを目指して努力する責任があることを忘れてはならないと、私自身ひそかに自戒するところです。
(追記)税理士会の幹部によって、税理士業務の無償独占が何か税理士に与えられた特典でもあるかのような印象を匂わせ、それを税務援助の理由によく持ち出されることは上記の文中でも散見されると思いますが、無償独占は税理士業務を取締る必要からの規制であって、税理士に与えられた特典でもなんでもないことを、私たちははっきりと認識する必要があります。

また税理士法1条を、国家の税務行政への協力と捉え、そこに税理士や税理士制度の「公共性」の根拠を見出すことは、国家=「公共性」の誤りを犯す危険があるばかりか、同条の解釈としても一面的である謗りを免れません。

私は、この1条は、同法2条の税理士業務の中心である納税者の権利・利益を代理する税務代理との適合性を念頭において解釈しなければならないと考えていますが、この点については紙数の関係がありますのでまた別の機会に譲ることといたします。

(文責・いとうきよし)

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