論文

特集・憲法
憲法9条と平和主義の意義
一橋大学大学院法学研究科教授只野雅人

9条と自衛権

「自衛権」のあり方は、国家主権、そしてとりわけ近代国家の存在理由そのものともかかわる問題である。1789年のフランス人権宣言2条は、「あらゆる政治的団結の目的は、人の消滅することのない自然権を保全することである」と定めている。国家の存在理由は、国民の「自然権」ー 自由・所有権・安全 ー の確保に求められている。国民の「安全」の確保は、対内的には警察力を通じはかられるが、国外からの侵略に対する防御には、軍事力があてられてきた。「自衛権」は、軍事力の行使と不可分に用いられてきた概念である。

近代国家はこの意味での「自衛権」を前提としてきた。国際法上も、同様である。国連憲章51条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と規定している。

だが、武力行使と結びついた「自衛権」を、憲法の規定にかかわらず「独立国家固有の権利」として当然に認めることはできないように思われる。たしかに、国際法上「自衛権」は認められているが、国連憲章は、一定の条件の下で「自衛権」の行使を「害するものではない」としているにとどまる。

加えて、「自衛権」のあり方を国内でどう定めるかは、何よりそれぞれの国民の選択の問題である。個人が有する人権をめぐっては、国家以前から存在する「消滅することのない自然権」の存在が語られることもある。しかし、国家には、「自然権」と同様の「権利」はない。国民主権の下では、主権者・国民が「自然権」の保全に必要と認めた権限が、憲法の限度で国家に付与されているのである。
日本国憲法の場合はどうか。憲法学説の多くは、「自衛」目的であっても軍事力の保持は許されないとの解釈をとってきたが、他方で、「自衛権」自体については、放棄されていないと考えてきた。軍事力の保持が認められない結果、自衛権は、戦力や、武力の行使を伴わない方法によってのみ、発動を許されるとする、「武力なき自衛権論」と呼ばれる立場が、有力であった。しかし、「自衛権」が、軍事力と不可分の概念であることは先に見たとおりである。したがって、「自衛」目的の戦力保持が認められないと考えるのであれば、近時の有力説が主張するように、日本国憲法は「自衛権」自体をも放棄しているとみるのが自然であるように思われる (6)

では、日本国憲法において「自衛権」までもが放棄されていることにはどのような意味があるのか。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」という前文からもうかがわれるように、戦争をめぐる日本の「特殊」な経験と反省が、その背景にあることはいうまでもない。「侵略」と「自衛」の区別が困難であることもよく指摘される。また、「国及び国民の安全」の確保という「自衛権」の根拠も、実は極めて多義的な概念である。

「国及び国民の安全」が特定の利益や権益を守るための軍事力の行使を正当化するために援用される例は、今日においても、決して少なくない。アメリカの「対テロ戦争」の論理にもみられるように、「国及び国民の安全」を「徹底的」に確保しようとすれば、予防的な先制攻撃も広汎に許容されることになる。「国及び国民の安全」は、国内における様々な人権の制約を正当化する論拠ともなりうる。

さらに、これらの点ともかかわり、ここでとりわけ強調しておきたいのは、軍事力を「法的」に枠づけ統制することのもつ意味である。近代国家は、軍事力と結びついた「自衛権」を前提とした上で、民主主義を通じたその統制をはかってきた。主権者・国民に対する政治責任を負う大統領や首相に軍の指揮権を委ね、軍事力の発動・行使については、民主的に選挙された議会が承認や統制を行うというのが、一般的な形態であろう。軍事力の「政治的」な統制といってもよいであろう。しかし、「政治的」統制は、決して容易なことではない。それは、十分な民主主義の機能を前提とするが、その場合でも、軍需産業など、「軍事」をめぐる様々な利益の主張が、政治過程に混入することは十分に考えられる。
いったん「自衛権」が認められてしまえば、その行使や範囲を「法的」に限定する論理を導き出すことは困難である。「個別的」であれ、「集団的」であれ、また「予防的」なものであれ、政治的承認を条件に、時々の情勢や軍事的合理性にもとづき、「自衛権」の行使が認められることになろう。

実はこの点で、日本政府の「自衛権」論は、かなり「異質」である。「自衛権」を認めつつも、9条を意識し、その範囲を「自衛のための必要最小限度」「専守防衛」に限定せざるを得なかった。その結果として、「自衛権」の行使や範囲に、様々な憲法上の制約が生じることになった。武力行使を目的として自衛隊を海外に派遣すること ー「海外派兵」ー や、他国と共同で「防衛行動」をとること ー「集団的自衛権」の行使 ー は、憲法上許されないとされてきた。

ここ数年、従来の政府解釈の「実質的」変更に踏み込んだともみられる一連の法律が、相次いで制定されてきたことはたしかである。日本「周辺」での「有事」に際しての米軍への協力を可能にする「周辺事態法」(1999年)、アフガニスタンでのアメリカの軍事行動の支援を目的とした「テロ対策特措法」(2001年)、そしてイラクへの自衛隊派遣の根拠となった「イラク特措法」(2003年)などは、従来の政府解釈を前提にしても大きな問題をはらんでいる。だが、これらの法律にあっても、「武力による威嚇又は武力の行使」が明文で禁止され、また自衛隊の活動領域が「戦闘行為が行われることがないと認められる」地域に限定されている (7)

こうした規定の「現実性」は疑わしいが、法文上は今なお、9条との「整合性」の外観が維持されている。「自衛権」本来の論理や軍事的合理性からは説明できない制約が、「法的」に機能しているのである。それが、「自衛権」の放棄にまで踏み込んだ憲法のもとではじめて可能になったことを見過ごしてはならない。

9条をめぐる「理念」と「現実」

憲法9条をめぐっては、その「非現実性」や「現実との乖離」の大きさが指摘され、その規範力にも疑問が投げかけられてきた。たしかに、軍事力の保持を許容しないとする9条解釈と現実との隔たりは大きい。冷戦崩壊後、世界規模での大国の軍事衝突や核戦争の可能性は小さくなったが、かわって地域紛争やテロの「脅威」が増し、軍事力や「力の論理」への依存は、強まっているようにさえ見える。だが、そうした状況だからこそ、あらためて、「自衛」の名による軍事力の行使や範囲に「法的」制約が課されたことの意味が、十分な重みを持って受け止められなければならない。

繰り返すが、「自衛権」の行使に対する日本独特の「法的」制約は、9条の存在があって、はじめて可能になったものである。それは、「自衛権」本来の論理からは導かれない。たしかに政府は、「自衛戦力」あるいは「自衛権」が放棄されているという解釈を採用していない。だが、そうした解釈が、9条や日本国憲法全体の規範構造と整合性をもつがゆえに、「自衛戦力」を認めるにしても、「合憲性」の外観を維持するために、9条本来の論理に配慮せざるを得なかったのだといえよう。

9条をめぐる政府解釈は、9条本来の論理と「現実」との微妙なバランスの所産でもある。政府解釈の変更や憲法改正という形で、「軍事」の論理の方向に進むことが本当に賢明な選択といえるのか、慎重に考えてみる必要がある。ひとたび「自衛戦力」の憲法上の承認に踏み込んでしまえば、これまでのような「法的」制約はもはや機能しないであろう。

必ずしも従来の政府解釈を変更するものではないが、この点と関わりやはり大きな問題をはらんでいると思われるのが、2003年から2004年にかけて制定された「有事法制」「国民保護法制」である。「国民の保護」を名目に、「有事」に対応するための様々な権利制約も規定されている (8)

政府は、「武力攻撃事態への対処のために国民の自由と権利に制限が加えられるとしても、国及び国民の安全を保つという高度の公共の福祉のため、合理的な範囲と判断される限りにおいては、その制限は憲法第13条等に反するものではない」と説明している (9)

たしかに「有事法制」は、「個別的自衛権」を認める政府解釈と矛盾するわけではない。従来より、自衛隊の存在を通じ、軍事力行使の可能性は潜在的には存在してきた。だが、それが具体的かつ詳細な形で、法律上明文化されたことの意味は重大である。「有事」やそれにもとづく権利制約の可能性に正面から法的正当性を付与したことの帰結の重大さを、改めて考えてみる必要があろう。

(6) 9条解釈をめぐる諸学説につき、山内敏弘『平和憲法の理論』(日本評論社1992年)59頁以下などを参照。
(7) これらにかかわる政府解釈につき詳しくは、浦田一郎「武力の行使・武器の使用と集団的自衛権」山内敏弘編『日米新ガイドラインと周辺事態法』(日本評論社1999年)参照。
(8) 「有事法制」につき詳しくは、全国憲法研究会編・法律時報臨時増刊『憲法と有事法制』(日本評論社2002年)などを参照。
(9) 2002年7月24日、衆議院・武力攻撃事態への対処に関する特別委員会での福田康夫内閣官房長官の答弁。

文責・ただのまさひと
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